雨の日とか風の日は二、三日つづくように、悪いこともかさなってやってくるものだ。
その日は水曜日だったので職員会議がひらかれた。小谷先生の学校は水曜日に会議がひらかれるしきたりになっている。
予定されていた話し合いがすべてすんで、みんなやれやれという表情のとき、教頭先生がもう一つといって立ちあがった。
「村野先生からのご提案で、みなさんに話し合ってもらいたいということがありますので、もうすこし時間をください。じゃ村野先生」
三年生の主任をしている村野康《やす》子《こ》先生はちょっと青い顔をして発言した。
「わたしの組に瀬沼浩《こう》二《じ》という子どもがいるのですが……」
子どもの名まえをきいて、たくさんの先生は、またかという顔をした。浩二は処理所の子どもだったのだ。
「その浩二くんに給食当番をさせるかさせないかということで、先日学年の先生たちと話し合いをいたしました。浩二くんはせいけつにするということができない子どもです。食事前の手洗いはいたしません。消毒液に手をつけることもしません。お風呂がきらいで、手足はいつもアカがこびりついているような状態なんです。いろいろ指導しましたけれど、よくなりません。家庭にも連絡をして協力をもとめましたが、なしのつぶてで、まるで関心がないようです。そのうち子どもの方から非難の声があがってきまして、浩二くんが給食当番をしているあいだは給食をたべないというのです。わたしはこれまで子どもに衛生ということをやかましくいってきましたから、そういう子どものもっともな言い分を無視するわけにはまいりません。万一、食中毒でも発生すれば、たちまち教師の責任です。わたしは浩二くんによく話をしました。改めないときには給食当番をやめてもらうと告げました。その話を学年打合会でしましたところ、折橋先生からそれは差別の教育やといわれたんです。わたしは二十五年も学校の教師をしてきました。わたしはわたしなりにいっしょうけんめいやってきたつもりですが、そういうことをいわれたのははじめてです。折橋先生から一方的に差別教育だといわれたことに、わたしは納得できないものを感じます。この問題をみなさんに話し合ってもらって、こういう場合、みなさんだったらどうするか教えていただきたいと思います」
「折橋先生なにかご意見がありますか」
折橋先生はこまったような顔をして、頭をかきながら立ちあがった。
「よわったなァ。ぼくは教師になってまだ二年めだから、村野先生みたいにいろいろなことをちゃんと知っとって、いいとか悪いとかよういわんのやけど……」
折橋先生はしゃべるのが得意でないらしい。鼻の頭にいっぱい汗をかいて、へいこうしてしゃべっていた。
「ぼくがいいたいことは、先生もふくめてクラス全体が、浩二くんの立場に立ってものを考えていないということなんです。うまいことよういわんけど、浩二くんがアカだらけということは、浩二くんが好きでそうやってるわけでないんだから、浩二くんの側に立って考えたら、また、ちがった見方ができるんとちゃうかということをいいたかってんけど……口べたやから、うまいことよういわんワ」
折橋先生がそういってすわると、みんなちょっと笑った。あんまり汗をかいているので気のどくな気がしているのだろう。すかさず、村野先生が立った。
「それはどういうことですか。わたしは浩二くんの立場に立って考えたからこそ、そういう処置をとったのですよ。このままだったら、浩二くんはいっそうクラスから、のけ者にされます。原因は浩二くんにあるんですから、それを無視して浩二くんの立場に立ってみても、問題は解決しませんよ。折橋先生のものの考え方はたいへん子どもにやさしそうだけれど、それはかえって子どもをあまやかしてだめにすると思います。教育というものはきびしさが必要でしょう」
それから数人の先生が立って発言した。折橋先生に好感はもっているが、考え方としては村野先生の方に流れていくようだった。
ふけつなものをそのままにしておくのはまちがいだということと、子どもの気持をできるだけ傷つけない心くばりをしよう、という二点で話がまとまっていくようだった。ある先生はいった。
「わたしは給食当番を選ぶとき、子どもに投票させています。友だちにやさしくできる人、いつも身なりをせいけつにしている人を考えて投票しなさいというんです。そういう目的をもたせていると、給食当番になりたくて、子どもどうし、よい意味の競争をしてくれるのでたいへん教育的だと思います」
発言がとぎれたときに教頭先生が、小谷先生に話しかけた。
「先生のところの臼井鉄三は……」
小谷先生はどきんとした。話し合いのとき、鉄三のことにふれられないかと、はらはらしていたのだ。
「ふつうに給食当番をさせています」
小谷先生は小さな声でこたえた。
「あの子、ハエを飼ってるね」
小谷先生は針のむしろにすわっているような気になった。
「あの臼井くんに給食当番をさせているんですか」
村野先生はあきれたようにいった。鉄三がハエを飼っていることは、ほかの先生にもすっかり知れわたっているのだ。
村野先生はいじ悪く、養護の先生にハエを飼っている子どもに給食当番をさせることをどう思うかとたずねた。とうぜん養護の先生は、ゆきすぎだ、すぐやめさせてもらいたいといった。小谷先生は小さくなっていた。
「なにいうとるんじゃ」
とつぜん大きな声がした。
足立先生である。教頭先生がむっとして、「発言するなら手をあげてからにしてくれ」といった。
「はあーい」
足立先生はバカにしたように、いっそう大きな声をはりあげた。しかたなさそうに教頭先生は、どうぞといった。
「折橋くんのいっていることだけが正しくて、ほかの人のいうてることは、みんなまちがいやとぼくは思う。給食当番は全員にさせなくちゃいけない。あたりまえのことながら、浩二も鉄三も全員のうちにはいる。もし、浩二や鉄三がふけつであるために病原菌をばらまいたとしたら、学級担任をはじめクラス全員がよろこんで伝染病にかかる」
みんなどっと笑った。
「もっとまじめに発言してもらいたいな」
苦虫をかみつぶしたような顔をして教頭先生はいった。
「まじめにいうとる。ぼくのいいたいことは保健教育に名をかりて、子どもの心をふみつけていないか、それぞれの教師が自問自答してくれということなんだ」
小谷先生が手をあげた。
立ちあがった小谷先生はしばらくだまっていた。ことばをさがしているふうだった。
「なんの考えもなしに鉄三ちゃんを給食当番にしていた自分をはずかしいと思います。鉄三ちゃんが、せいけつな子どもでないことはわたしも認めます。その子どもを給食当番にしてなにも思っていなかったというのは、たしかに学校の教師としてなまけ者だったと思います。そのことをまず反省しますわ」
「そんなもん反省せんでよろしい」
足立先生がヤジをとばした。
「もう、だいぶ前の話になりますが、鉄三ちゃんがカエルをふみつぶしたことがあります。そのとき、わたしはただ恐ろしいだけで、どういう気持から、そんなざんこくなことをしたのか、子どもの心のうちを考えてやるゆとりがありませんでした。つい先日その原因がわかったんです」
小谷先生は鉄三のひみつを知ることになったようすをていねいに話していった。バクじいさんの話はとくにくわしく話した。
「鉄三ちゃんはまだ、わたしに心をひらいてくれません。しかたがないですわ。鉄三ちゃんが悪いわけじゃないんですもの。わたしがもし、事件のおこったさいしょのときに、あの子の心にふれていたら、四カ月も五カ月もまるでむだな時間をついやさなくてもすんだのにと思うととてもくやしい。足立先生や折橋先生がおっしゃった子どもの心を大切にするということは、そんなわたしの体験から考えてとてもよくわかるお話なんです。さいわい、わたしの組の鉄三ちゃんは手洗いの消毒を実行してくれますので、このまま給食当番をつづけることを許していただきたいと思います。ハエを飼っていることについては、わたし、いっしょうけんめい鉄三ちゃんを説得してみますわ」
小谷先生が職員会議で発言したのははじめてのことだった。そういうこともあってか、みんなしーんときいていた。話しおわると、自分のからだがこまかくふるえていて、そのことが小谷先生にははずかしかった。
悪い日の、悪いことのさいしょは、その職員会議の後だった。教頭先生に、ちょっとと呼ばれて、職員室のとなりの教室へいくと、かれはこわい顔をして立っていた。
「ああいう発言はこまるね小谷先生」と、にがにがしげにいった。
「あれじゃ、まるでわたしが悪者になってしまうじゃないか。あの事件ではあんたのために、わたしはずいぶん苦労をしたんだよ。ああいう話をされると、わたしは臼井鉄三をなぐっただけの軽はくな人間になってしまうじゃないか」
小谷先生はどういっていいのかわからなかった。だまって、ただつっ立っていた。やりきれない気持があとに残った。
悪いことの二つめは、そのかえり道であった。小谷先生は鉄三に会って話してみようと思った。すぐに鉄三にハエを飼うことをやめさせられるとは夢にも思わなかったが、話しているうちに、すこしはうちとけてくれるかもしれないと思ったのだ。気長にやってみるつもりだった。
「鉄三は人間の子どもなんだから、人間の友だちがほしいとねがっている」バクじいさんのことばが小谷先生の頭にこびりついていた。
処理所にはいっていくと、例によって功たちがかけてきた。この子たちとは、なんの苦労もなしに、なかよしになれたのになあと小谷先生は思う。
「功くん、浩二くんってどの子」
小谷先生がたずねると、功は、
「ここにおるやん」
と、すぐとなりの、からだの小さな子どもを指さした。
「あなたが瀬沼浩二くん」
「うん」
大きくうなずいて、浩二の笑ったどんぐり眼が小谷先生を見あげている。
小谷先生はなあんだと思った。きょうの職員室の話から、ひどくきたない子を想像していたのだ。陰気で反抗的でいつも白い眼をむいているようなことをいっていたが、じっさいの浩二はまるでちがう。
たしかに、はだしできたないけれど、このくらいのよごれなら下町の子ならふつうだ。色の白い小谷先生でも、はだしで遊んでいたら、これくらいはよごれることだろう。
「浩二くん、きれいな眼をしているね」
小谷先生がそういうと、浩二はうれしそうに笑った。
「もてるなァ」と、純にからかわれて、浩二はいっそううれしそうな顔をした。
「ちぇ、あのオールドミスのオバハン、だましたナ」
小谷先生はずいぶん乱暴なことばを使ってひとりごとをいった。処理所の子どもたちや足立先生のくせが、うつってきたのかもしれない。
功がききとがめ、
「先生がそんなことばを使ってはいけませんねえ。おっほんおっほん」
と、胸をはって校長先生のまねをした。
「ふふふ……」と小谷先生はてれ笑いをした。
「先生、あした徳治がかえってくるで」
徳治といちばんなかのよかった四郎がいった。
「そう。徳治くんあした退院するの。よかったね」
鳩をとろうとして製鋼所の屋根から転落した子どもが徳治だった。
「徳ックン、どんな顔してかえってくるやろ」
みんなが徳治のことを気にしているふうだった。
「鉄ツンに用事か」
功がきいた。ええ、とこたえて、小谷先生は思った。
鉄三とふたりきりで話をするより、この子どもたちと雑談しているようにして、なにげなく話をするほうがいいんじゃないかしら。
「鉄三ちゃんを呼んできてくれる」
純が鉄三を呼びにいった。まっているあいだ、小谷先生は浩二と話をした。
「浩二くん、あなたお風呂きらい」
「きらいや」
「きれいにせんとおヨメさんきてくれへんよ」
「ふふふ……」
「浩二くんは給食のとき、手を洗わんでしょう」
「だって……」
「だってって」
「おれのこと、みんなバイキンバイキンっていうもん」
「だれがそんなことをいうの」
「みんな」
「みんな? 先生はしからないの」
「先生はおれの味方とちゃうもん。おれが悪いって。きれいにしないもんが悪いっていうもん」
小谷先生はため息をついた。
「そう。それで浩二くんは手洗いをしないの」
「うん」
「じゃ先生があなたのクラスの人にいったげよか。浩二くんの気持を」
「いらん」
「どうして」
「おれ、ムラノきらいやもん」
そのとき小谷先生は思った。
おれ、コタニきらいやもん、鉄三はそういっている。小谷先生は暗い気持になった。
純につれられて鉄三がきた。あいかわらず心のない人形のようだった。小谷先生の前にきても下を向いたままだ。
「おまえ、ほんまにあいそないなァ」
純まであきれている。
「純くん、別荘につれてってよ」
「別荘?」
「つづり方にかいていたでしょう。ぼくらの別荘って」
「ああ、基地のことか」
子どもたちはよろこんで、小谷先生をかれらの御殿に案内した。
「あれ、ここ涼しいねえ」
「処理所の中でいちばん涼しいねん」
「ほんとだ」
「ここはアダチもようくるで。職員会議サボったったいうて昼ねしてるワ」
小谷先生は吹き出してしまった。ほんとにしようがない人だ。
「あなたたち、アダチとかムラノとかいって先生を呼び捨てにしているけれど、わたしのこともコタニっていっているの」
先ほどから気になっていることを、小谷先生はたずねた。
功は頭をかいた。四郎がいった。
「そないいうたら、小谷先生だけはコタニっていわへんなァ」
ほんまや、と、みんなふしぎな顔であいづちをうった。
「どうしてなの。不公平じゃない」
「先生は美人やから、みんながおまけしてるのやろ」
「あんなことをいって、わたしになにかおごらせる気なんでしょう」
「アダチはたいこ焼、おごってくれるで」
と芳吉はいった。功がまたあわてて、アホと芳吉をこづいた。
「おまえはほんまに……」
功はぶつぶついっている。どうもこのコンビはじきこういうことになってしまうらしい。小谷先生は笑った。
「いいわ。たいこ焼は暑いから、アイスキャンデーにしなさいよ。先生おごってあげるから」
みんな、かん声をあげた。
処理所の子どもたちと話していると、小谷先生は気持がのびのびした。足立先生じゃないけれど、わたしもときどき遊びにこよう、こうしておしゃべりをしているうちに、鉄三もやがてうちとけてくれるだろうと思った。
みんなたのしそうにアイスキャンデーをしゃぶっていた。小谷先生も子どもにかえって、アイスキャンデーを一本たいらげた。子どもたちはまだたべている。
「鉄三ちゃん、きょう学校でね。先生方の話し合いがあったの。鉄三ちゃんがハエを飼ってること、どの先生も知っていたわ」
功がちらっと鉄三を見た。
「ハエってバイキンのかたまりなんでしょう。先生も調べたんだけれど、赤痢とかチフスとかたいへんこわい病気をはこぶんだって。もしよ、もし鉄三ちゃんがハエからそのバイキンをもらって給食当番をしたらどうなると思って。クラスの人みんなが病気になってしまうのよ。そのことを先生たちは心配をしているの。鉄三ちゃんは知らないんでしょうけれど、飼ってかわいい虫とか動物はほかにもいっぱいいるわ。先生といっしょに人間に害をしない虫を飼いましょう、ね」
鉄三はアイスキャンデーをたべるのをやめた。
「いまこの町で、ハエや蚊をなくす運動をしていて、できるだけたくさんのハエを殺すおくすりをまいているの」
鉄三の眼がすこし光った。小谷先生は気がつかなかった。
「ハエを殺してしまわないと……」
鉄三が立った。
つかつかと小谷先生の前にきた。両手で思いきり小谷先生の顔をつかむと、あるだけの力を出して、うしろにつきとばした。ひめいといっしょに小谷先生はあっけなくたおれた。
「鉄ツン!」
顔色をかえて、功は立ちあがった。
鉄三はかけた。とっさになにがおこったのか小谷先生には判断ができなかった。逃げていく鉄三のうしろ姿をぼうぜんと見ていた。
鉄三の姿が見えなくなると、せきが切れたようにかなしみがおそった。からだの中のものが、つぎからつぎへ吹き出てくる。胸があつくなり、痛くなり、そして目の前が暗くなった。
小谷先生は大声をあげて泣いた。子どもたちがいることもわすれて、幼児のように泣きじゃくった。
子どもたちは泣いている小谷先生の前にしゃがみこんだ。功と純は眼にいっぱい涙をためて、じっと小谷先生の顔を見つめていた。
悪いことの三つめは家へかえってからである。
小谷先生はべったり部屋にすわりこんでいた。あかりもつけずに気のぬけたようにすわっていた。
声をかけられて、はじめて夫のかえってきたことを知った。食事は、と問われて、まだ、とものうげに小谷先生はこたえた。部屋のあかりをつけて、小谷先生の顔を見た夫はちょっとおどろいた。それから小谷先生の話をきいて、いいかげんにしとくことやなといった。
「いいかげんにできないから苦しんでるんじゃないの!」
小谷先生はヒステリックにさけんだ。
「バカ!」と夫はどなった。
「だれが大事なんかよく考えろ。家の生活もきちんとできない者に、ひとの子の教育ができてたまるか」
小谷先生の眼からぽろぽろ涙がこぼれた。
「おまえがひとりでくらしているんならどうしようと勝手だ。ぼくだって会社でいやなこともあればつらいこともある。それをいちいち家の中へもちこんでいたらどうなるんだ。なんのために共同生活をしているのか、よく考えろ」
心の冷えていくのが小谷先生にわかった。わたしのつらいことは、あなたのいってるつらいこととまるっきりちがう、と小谷先生はいいたかったが、もう、口がひらかなかった。
その夜、小谷先生はウィスキーをがぶのみした。そして自分がこの世でひとり生まれてきたようなさびしい気持になった。
ウィスキーのビンの口にハエが一匹とまった。おっぱらわないで、じっとそれを見た。小谷先生はいつまでも、そのハエを見つめていた。