私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。
「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食糧収集に出動している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。まさかほっときもしねえだろう。どうでも入れてくんなかったら——死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」
私は喋るにつれ濡れて来る相手の唇を見続けた。致命的な宣告を受けるのは私であるのに、何故彼がこれほど激昂しなければならないかは不明であるが、多分声を高めると共に、感情をつのらせる軍人の習性によるものであろう。情況が悪化して以来、彼等が軍人のマスクの下に隠さねばならなかった不安は、我々兵士に向って爆発するのが常であった。この時わが分隊長が専ら食糧を語ったのは、無論これが彼の最大の不安だったからであろう。
いくら「坐り込ん」でも病院が食糧を持たない患者を入れてくれるはずはなかった。食糧は不足し、軍医と衛生兵は、患者のために受領した糧秣で食い継いでいたからである。病院の前には、幾人かの、無駄に「坐り込ん」でいる人達がいた。彼等もまたその本隊で「死ね」といわれていた。
十一月下旬レイテ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた、以前の病気が昂じたのである。私は五日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。血だらけの傷兵が碌々手当も受けずに、民家の床にごろごろしている前で、軍医はまず肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見ると、入院を許可してくれた。
三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない、五日分の食糧を持って行った以上、五日おいて貰え、といった。私は病院へ引き返した。あの食糧は五日分とはいえない、もう切れたと断られた。そして今朝私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確めたかったからにすぎない。
「わかりました。田村一等兵はこれより直ちに病院に赴き、入院を許可されない場合は、自決いたします」
兵隊は一般に「わかる」と個人的判断を誇示することを、禁じられていたが、この時は見逃してくれた。
「よし、元気で行け。何事も御国のためだ。最後まで帝国軍人らしく行動しろ」
「はいっ」
室内には窓際に汚い木箱を机にして、給与掛の曹長が何か書類を作っていた。我々の会話が聞えないように、黙って背中を向けていたが、私が傍へ行って申告すると、立ち上り、細い眼をさらに細くしていった。
「よし、追い出すようで気の毒だが、分隊長の立場も考えてやらんといかん。犬死するなよ。糧秣をやるぞ」
彼は室の隅の小さな芋の山から、いい加減に両手にしゃくって差し出した。カモテと呼ばれ、甘藷に似た比島の芋であった。礼をいって受け取り、雑嚢へしまう私の手は震えた。私の生命の維持が、私の属し、そのため私が生命を提供している国家から保障される限度は、この六本の芋に尽きていた。この六という数字には、恐るべき数学的な正確さがあった。
敬礼して廻れ右をすると、分隊長の声が追って来た。
「隊長殿には申告せんでもいいぞ」
一瞬中隊長にいえば助かるかも知れないと思ったが、これは未練であった。前線では将校は下士官の集団的意志に屈していた。隊長室はこの室からひと跨ぎの、渡廊下で繋いだ別棟にあったが、入口を覆ったアンペラは静まり返っていた。
「申告しないでもいい」とは、私の場合が前日病院へ送り返された時、決着していたことを示していた。今日私が帰って来たのは、まったく余計なことであった。だからこれは純然たる分隊長の問題だったわけである。
半ば朽ちた木の階段を下りると、木の間を透して落ちる陽が、地上に散り敷いていた。横手に彼岸花に似た褪紅色の花を交えた叢が連り、その向うの林の中で、十数人の兵士が防空壕を掘っていた。
円匙が足りないので、民家で見つけた破れ鍋や棒を動員して掘って行く。敗残兵同様となってこの山間の部落に隠れている我々を、米軍はもう爆撃しにも来なかったが、壕はとにかく我々の安全感のために必要であった。それに我々にはほかにすることがなかった。
林の蔭で兵士達の顔はのっぺりと暗かった。中に顔を挙げて私の方を見る者も、すぐ眼を外らし、下を向いて作業を続ける。
彼等は大部分内地から私と一緒に来た補充兵である。輸送船の退屈の中で、我々は奴隷の感傷で一致したが、古兵を交えた三カ月の駐屯生活の、こまごました日常の必要は、我々を再び一般社会におけると同じエゴイストに返した。そしてそれはこの島に上陸して、情況が悪化すると共に、さらに真剣にならざるを得なかった。
私が発病し、世話になるばかりで何も返すことが出来ないのが明らかになると、はっきりと冷いものが我々の間に流れた。危険が到来せずその予感だけしかない場合、内攻する自己保存の本能は、人間を必要以上にエゴイストにする。私は彼等の既に知っている私の運命を、告げに行く気がしなかった。彼等の追いつめられた人間性を刺戟するのは、むしろ気の毒である。
前方の路傍の木の根元に五、六名の衛兵が屯していた。そしてこれが現在、中隊の位置に残っている兵力の全部であった。
タクロバン地区における敗勢を挽回するため、西海岸に揚陸された、諸兵団の一部であったわが混成旅団は、水際で空襲され、兵力の半数以上を失っていた。重火器は揚陸する隙なく、船諸共沈んだ。しかし我々は最初の作戦通りブラウエン飛行場目指して、中央山脈を越える小径を行軍したが、山際で先行した別の兵団の敗兵に押し戻された。先頭は迫撃砲を持つ敵遊撃隊の活動によって混乱に陥り、前進不可能だという。我々は止むを得ず南方に道なき山越えの進路を取ったが、途中三方から迫撃砲撃を受けて再び山麓まで下り、この辺一帯の谷間に分散露営して、なすところなくその日を送っていた。オルモック基地に派遣された連絡将校は進撃の命令を伝えたが、部隊長はそれを握りつぶしていると噂された。
オルモックを出発する時携行した十二日分の食糧は既になかった。附近部落に住民が遺棄した玉蜀黍その他雑穀も、すぐ食べつくした。実数一個小隊となった中隊兵力の三分の一は、かわるがわる附近山野に出動して、住民の畠から芋やバナナを集めて来た。というよりは食い継ぎに出て行った。四、五日そうして食べて来ると、交替に次の三分の一が出動する間、留守隊を賄うだけの食糧を持って帰って来るのである。附近の部落に散在する部隊も、同様の手段で食糧をあさっていて、我々は屡・出先で畠の先取権を争い、出動の距離と日数は長くなった。
喀血して荷が担げない私は、この食糧収集に加わることが出来ない。私が死ねといわれたのは、このためである。
私は木の間を歩き衛兵達に近づいた。彼等は土に腰を下し、迎えるように私を見守っていた。衛兵司令に隊から棄てられたことを、繰り返すのもいやであったが、彼等の無関心な同情に、惨めな姿を曝すのが一層苦痛であった。待ち設けるような視線の中を歩いて、彼等の位置に達するまでの時間は長かった。
衛兵司令の兵長はしかし私の形式的な申告を聞くと顔色を変えた。満州の設営隊から転属になったこの色白の土木技師は、彼自身の不安を想起させられたのである。
「出て行くお前がいいか、残った俺達がいいかわかったもんじゃねえ。どうせ斬込みだからな」と呟いた。
「病院じゃ入れてくれないんだろう」と兵士の一人がいった。
私は笑って、
「入れてくれなかったら、入れてくれるまで頑張るのさ」
と分隊長にいわれたままを繰り返した。私は早くこの場面を切り上げることしか、考えていなかった。
別れを告げる時、偶然顔を見合せた一人の兵士の顔は歪んでいた。私自身の歪んだ顔が、欠伸のように伝染したのかも知れない。私は出発した。