偕行社は九段坂上にあった。卵色の二階建の洋館で、洋風建築の少ない当時としては仲々しゃれた建てものであった。
この社の設立に参画した人は多かったが、実際にここで働いた旧将校は小武を含めて十名に満たなかった。いずれもかつての戊辰、函館、西南といった戦役で傷ついた人達であった。この中で小武は一番若かった。退役時の位階では彼より低い中尉と少尉が二名ずついたが、いずれも退役が早かったからで、戦傷さえ受けなければ当然小武より上の階級になっている人達であった。従って此処では退役時の階級はほとんど無意味で、将校任官の年月日で上下が定められた。
彼の仕事は書籍係であった。将校達が来社して読書をする時に貸出し事務をする。今の図書館司書のような役目であった。図書といっても多くは西洋兵学書であり、他に国史略、日本外史、政記、といったものに、外国の兵学書、雑誌等が交っていた。当時これらの書籍は一般に売り出されてもいたが少なく、かつ高価なものであった。
社員、すなわちクラブ会員である将校達は軍務の余暇を見てはここに現われ、本を読み集会所で雑談をし、玉突きや、囲碁将棋を楽しんだ。「クラブ」というのは本来、家庭で常に女性に気を使って生活している西欧の紳士達が、男達だけが集まって心おきなく楽しもうという目的でできた場所で、会員は勿論、そこに働く者も女人禁制というのが原則である。そういう意味からいうと日本の男に「クラブ」は必要ないということにもなりかねない。ともかく偕行社はこうした西欧式クラブを見聞した当時の新しい将校達がつくり出したものである。
偕行社に勤めるとともに小武は叔父の家を出て、上野谷中に一軒家を借りた。六畳二間に台所と流しだけという小さな家であったが、男一人では手数がかかる。彼は隣りの駄菓子屋の女に家事の手伝いを頼んだ。
帰京して一時荒れていた小武の生活は偕行社に勤めるとともに急速に落ちつきを取り戻した。彼はその頃の官員が皆そうであったように口髭を生やし詰襟の服を着た。洋服は袖が長くぶらぶらして腕が無いのが目立つので、東京へ戻ってから着たことがなかったが、偕行社に入ってからは隠す必要はなかった。来社する将校は袖のつぶれた右腕を見ると戦傷者への敬意からきまって目礼を返した。
小武が偕行社に勤めて三カ月経った九月二十四日に、西南戦争は城山の戦いで幕を閉じた。西郷軍三万、征討軍五万八千を動員した最後の士族反乱は幕を閉じ、これによって明治政府の権力は確立した。凱旋軍が続々と帰京し、それにともなって偕行社への入会者は増え、集会場は賑やかさを増した。
集まった将校達の中には小武の顔見知りの者が何人かいた。ほとんどが半年から一年ぶりであった。彼等の話は西南戦争の手柄話と恩賞でもちきりだった。
「貴公は何処で創をうけられたのか」
「植木坂だ」
「そうか、あそこもひどかったらしいな」
ほとんどが小武の返事をきくと眼を輝かせた。その名は熊本城救援への最大の激戦地として誰もが知っていた。傷ついた地名を出すだけでその男の勇敢さが知れた。中山の云ったとおり、軍ではないが軍にいると同じ雰囲気を小武は充分すぎるほど味わっていた。
秋になり空は見事に澄み渡った。朝夕冷え込みのきつい時、小武の腕の断端は軽く疼いた。創を見るが別に異常はない。彼は断端に綿を巻きその上を包帯でまき込んで冷えを防いだ。温かくするだけで痛みはすぐ治まった。
彼が衛士から寺内という男が面会に来ていることを報されたのは、この年の十一月の半ばであった。
「寺内?」寺内と云えば臨時病院で一緒だった男しかいない。
「その男は腕がない奴だろう」
「腕ですか、ありましたが」
「なに、ある? 平服だな」
「いえ、肋骨服です」
肋骨服とは当時の軍人が着た黒に横紐の入った軍服である。小武は狐につままれた気持だった。彼は自分から玄関に出かけた。
入り口の石段に立っていたのはまさしく寺内寿三郎であった。しかも陸軍大尉の軍装をし、袖の先からはたしかに手が出ている。
「久し振りだな」
寺内は例の長い顔に人懐っこい笑顔を浮かべた。
「帰って来たのか」
「十月の末に退院したのだ」
小武はもう一度右の手を見た。たしかに人間の手である。
「治ったのか」
「いや治らん」
「どうしたのだ」
「ちょっとな、仕掛をして貰った」
「まあ、とにかく入れ」
半年ぶりであった。顔もすっかり陽灼けして一時は心細かった口髭もどっかりと八の字に備えている。
「見るか」
応接室に入ると寺内は器用に左手一本で服を脱いだ。袖口から現われた右腕は肩口のところで下着の袖はちぎられ、それから先は前腕の半ばまで包帯が巻かれている。しかも肘の上下は厚い皮でおおわれ、そこから内外両側に太い金具が渡されている。
「これで腕の先をおさえておるのだ」
寺内は金具のついた皮のバンドを外し始めた。
「これで肘を軽く曲げた位置で固定しておくと普通の手のように見えるらしい。まあ一寸した手品だ」寺内はにやりと笑った。
「だが仕掛を外すとこのとおりだ」
外した途端ぶらりと垂れ下った腕を寺内は左手で、よいしょとばかり持ち上げると机の上に置いた。
「して、創は治ったのか」
「治らん、まだ膿が出ているが、でも随分減った。もう、一日一度のガーゼ交換で間に合うのだ」
「指は?」
小武が尋ねるとすぐ、机の上で軽く握った形になっていた指がかすかに開いて閉じた。
「まあ、ないのと同じだ」
「しかし、うまいものを考えたものだな」
小武は革と金具でできた装具にすっかり感心してしまった。
「佐藤軍医監殿が考案されたのだ、外国にはもっと精巧なのができているらしい」
いまでは何処でも使われている良肢位固定装具のはしりである。現在のは金具も軽くなり関節も僅かの力で必要なところまで曲るように改良されている。
「それで、これからどうするのだ」
「病院にでも通いながら、しばらくのんびりするさ。終ったばかりだから当分戦争もないだろう」
云いながら寺内は外した装具を再びつけ始めた。
「予備役編入の命令は来ないか」
「まだないが、やはり駄目か」
「不具者はなあ、致し方あるまい」
「肋骨服ともお別れか」
寺内は憮然とした表情で宙を睨み、自由の利く左手で髭の端を捻っていた。
「おい煙草はないか、忘れてきたのだ」
「うん、ある」
小武はポケットから煙草をとり出し、机の端にあったマッチ箱をとり寄せた。
「紙巻たばこか、珍しいな」
当時としては紙巻たばこは珍しかった。小武も偕行社のようなモダンな所に勤めているから手に入ったのだった。
「こいつはきざみよりは便利だな」
小武はマッチを擦った。だがマッチ箱を押えていないのでテエブルの上を箱だけが移動して火は点《つ》かなかった。二度やったが結果は同じだった。
「よい、俺がやる」
寺内はテエブルの上にあげたままの右手にマッチ箱を握らせ、左手でマッチを擦った。火は一度で点いた。
「うん、いい香りだ」
寺内は大きく口を開いて煙を吐いた。小武は少し蒼ざめてマッチ箱をもった寺内の右手を見ていた。
(たしかに生きている)
彼には寺内の右手が魔物のように見えた。死んだ筈の手が|甦 ≪よみがえ≫っている。肘が動かず指の力が弱いといっても、それはたしかに寺内自身の手であった。それを見るうちに小武は何故か取り返しのつかぬ失態を演じた気持にとらわれた。
「退役になったら俺もここで使って貰おうかな」
寺内は小武の気持に無頓着に云った。
「軍にいるようなわけにはいかんぞ」
「俺はお前のように器用でないからな、軍人以外は勤まりそうもない」
「そうばかりも云っておれんだろう」
「服の着替えや、左手敬礼を覚えるだけで精一杯だ、それ以上のことはできん」
(相変らず融通のきかぬ奴だ、だがそれだけで通せるわけでもない)
小武は寺内の無器用な服の着方を見ながら、先程の失態をいくらか取り戻したような気持になった。
明治十一年が明けた。この年の二月、小武敬介は妻を娶った。相手は神田木挽町、河瀬小十郎の娘かよ二十一歳であった。小武とは八つ違いである。河瀬小十郎は長州の人で軽輩であったが、征長の戦の折、小瀬川口で幕軍に撃たれ右脚を失っていた。この父に仕えただけに不具者の世話は慣れていたし、不具者を嫌うということもなかった。
「顔はさほど美しくはないが女は心立てじゃ、あの女子なら間違いはない」
二人を見合わせた偕行社事務長の中山武親はそう云って小武を励ました。小武はむつ子のことでこりていたので気が進まなかったが、中山の熱心なすすめに心を動かした。
不具者の子が不具の者に嫁ぐ、それはなにか因縁話めいていたが、かよにはそんな暗さは露ほどもなかった。片腕と知って来てくれる娘の気持に小武は惹かれた。それに隣りとはいえ他人に家事を頼んでいるのは、何といっても不便だったのである。
「どうだ、銀座の煉瓦街でも見に行ってみようか」
新婚ではあったが二人とも年齢をとっていたので、すでに長年連れ添った夫婦に見えた。
銀座は煉瓦造りの洋館が建てられ、町並みが一変しつつあった。まだ四丁にも及ばぬ短いものであったが、牛鍋店、ガス燈、円太郎馬車と、そこには間違いなく文明開化の波が寄せていた。二人は銀座を新橋へ向かって歩いた。新橋に近づくと再び木造の家ばかりになっていた。小武はふとこの先を西へ曲ると練兵場へ出ることを思い出した。
「ちょっと行ってみよう」
妻は黙って従《つ》いてきた。本通りを折れると急に家並みが低くなり、人影もまばらになった。荒れたままの邸や堀跡が続く。長い石垣を抜けて曲ると、道の先に日比谷っ原の練兵場が見通せた。教導団のあった兵学寮の建物もそのままに残っている。小武は懐しさにかられて急ぎ足で練兵場に向かった。近づくにつれ兵の掛け声と馬の嘶《いなな》きが聞こえた。辺りにはもう家はない。
茫々とした草叢の先で粒ほどの兵が駈けている。西の一角に騎兵らしい一団が砂煙りをあげ、その先に大きな西陽が傾きかけていた。教導団時代から熊本出征までの八年間を過してきた所である。見ているうちに小武は剣を持ち駈け出したい誘惑にかられた。
(もう二度とこの中に入ることはない)
小武は練兵場の先に拡がる冬の空を見ていた。
「風邪をひきますよ、帰りましょう」
「うん」
夫の心を察したようにかよが声をかけたが、小武はなお外套に襟巻姿のまま、身動き一つせず、そこにつっ立っていた。
この年の五月三十一日、寺内は戸山士官学校生徒司令副官になった。
そのことを小武は十日後に偕行社で中山事務長から聞いた。
「本当ですか」
「嘘ではない。ここに出ている」
中山は官報を手渡した。まさしく寺内寿三郎である。何度見ても同じだった。それでもなお小武は信じられなかった。
「あいつは腕が利かない筈ですが」
「利かないがあるんだろう」
「ある……」
呆然と小武は口を開けていた。たしかに腕はあった、それは誰のものでもなく寺内自身のものであった。
「あればまた別だ、あるとないとでは全然違うのだ」
「しかしあの腕は……」
「いいではないか、彼は現役に残れたのだ、喜んでやれ」
「………」
「現役でも退役でもお国に尽すのは同じことだ」
マッチを掴んだ寺内の魔物のような手が小武に甦った。何かが大きく動き始めているようだった。それが何か、しかとは云い表わせない。しかし眼に見えないもう一つのものが少しずつ自分と寺内の間を引き離しているように小武には思えるのだった。