春が終り、再び梅雨の季節が訪れた。氷見子が病気に気付いて一年の歳月が経っていた。六月の初めの検査はやはり陽性であった。足の湿疹はかさかさと乾いた状態のまま快くもならず悪くもなっていない。足だけでなく体のすべてが一年前と変らず止っていた。当分進まないままに病気はどっしりと腰を落ちつけたようである。
冬から春にかけて田坂と花島の薔薇疹は鮮やかな花を咲かせて消えた。二人の男の薔薇疹が消えるのを待っていたように初夏の初めに伸吾の体に同じ斑点が浮かび上った。氷見子はそれをアパートの午後の光の中で見た。伸吾の薔薇疹を見ながら氷見子は春から夏へ新しく関係した三人の男、ママの愛している脚本家の村野と、一カ月前にスナックで知ったフーテンと、アパートの下水工事に来た労働者の顔を思い出していた。
フーテンとは一度きりだったが他は二度、三度とくり返した。次々と男達は氷見子の前で花を開き散らしていく。氷見子は花を楽しむ老人のようにその日を待っていた。花の咲く度に環は一つずつ着実に拡がっていく。それは性をこえ、年齢をこえ、身分や地位をこえ、確かで誰も壊せない。
夏が来て「チロル」は少し静かになった。あと二日で七月は終りだった。
「二人だけで話があるから残っていなさい」十一時にママが近づいてきて云った。ママの声は鋭く冷えていた。
客が帰ったあと店は二人だけになった。
「あなた、村野とも関係したのね」ママがスタンドの端に肘を置いて云った。
「答えなさい」
ママが叫んだ時、氷見子はかすかにうなずいた。
「やっぱり……」蒼ざめた長い顔が氷見子の顔に付くほどに寄せてきた。
「あんたはふしだらな、男好きの、売女《ばいた》よ」
ママの云うことはなかば本当で、なかば嘘のように思えた。
「今日かぎり店は辞めて貰うわ、劇団もね。明日私が劇団の会議にかけてやるわ」ママは震える手で煙草に火をつけた。
「伸吾さんとも付き合っていたのね、貴女は一体誰が好きなの。愛ということを知ってるの、人を愛したことがあるの」
氷見子の頭に大儀そうに伸吾が甦った。
「あの人、子供が産れるのよ。あんたがどうしようと、あの人はあの人の家庭を作っていくのよ、あんたに入り込める隙なぞないわ」
「………」
「出ていって頂戴、もうあんたのような女は見たくもないわ。もう私とも、店とも、劇団とも無関係よ。何の繋がりもないわ、知人でも団員でもない、赤の他人よ。決していれてやらない。さあ出ていって」
ママは裏木戸を開け外を指差した。氷見子はバッグを持ち今一度ママの方を振り向いた。
「お金はあとで計算して送ってあげるわ」
人通りの絶えたビルの小路を氷見子はゆっくりと歩いた。堅く小さな跫音だけが氷見子に従《つ》いてきた。行く手の空がネオンで赤く灼《や》けていた。
氷見子はママの云ったことを思い出していた。
「無関係で、無縁で、何の繋がりもないわ」
そこまで呟いて氷見子は立止った。
(伸吾の子供は本当に産れるだろうか)
氷見子は少し考え、それから一人でうなずくと、薔薇の環のように見える明るい空の方角へ確かな足取りで歩き始めた。