六時半に修子が会社を出ると、街はすでに夜になりネオンが輝きはじめている。
つい少し前、仕事を終えて机の上を整理していたときは西の方の空が茜色《あかねいろ》に染まっていた。それが帰り支度を整えて外に出てみると、夕暮れの名残りはすでにない。
修子は一瞬、「釣瓶《つるべ》落し」という言葉を思い出した。
気づかぬうちに盛夏が終り、季節は秋に移っているようである。
「釣瓶落しの秋の陽……」
つぶやいてから、修子はその言葉が若い女性に通じなかったことを思い出した。
去年のもう少し遅いころだったが、若い女性社員と步きながらそれをいうと、彼女は怪訝《けげん》な顔できき返した。
「それ、どういう意味ですか」
彼女はその言葉の意味はもちろん、「釣瓶」自体も知らなかった。
仕方なく、修子は釣瓶の意味から説明した。
あれはまだ小学生になる前だから三十年近く前である。祖母の家の近くに井戸があって、そこに太い紐《ひも》が下り、先端に小さな桶《おけ》がぶら下っていた。井戸から水を汲みあげるとき、その桶に水を満たして引上げる。釣瓶落しは、その桶が井戸の底に一気に落ちていくさまをいう。
秋の夕陽は、そのくらい沈むのが早いという意味である。
大学受験を目指したころ、修子は俳句か短歌で、この言葉に出遇ったような気がする。
そのとき、修子は幼いときに見た井戸と釣瓶を思い出した。いまはすでに祖母は亡いし、井戸も埋めたてられたに違いない。
だが、子供のときに上から覗いた井戸の怖さは、いまも脳裏に焼きついている。深い井戸の底に釣瓶が落ちていくように、秋の陽も見果てぬ暗黒の夜のなかに消えていく。昔の人はこの二つに、共通した怖れと侘《わび》しさを覚えたのかもしれない。
いま外へ出た途端、「釣瓶落し……」という言葉を思い出したことに、修子は満足しながら、少し侘しさも覚えた。
若い人々のあいだでは、死語になっている言葉を知っているということは、自分もそれなりの年齢に達したということかもしれない。
自分ではまだ若いつもりでいても、すでに若い人と通じなくなっている部分がいくつかある。言葉の上でさえこうだから、感覚の上ではさらに開きがあるかもしれない。
だが次の瞬間、そんな言葉を知っている自分を大切にしたいとも思う。
古いといわれても「釣瓶落し」はやはり日本の自然のなかから生れた、味わいのある言葉である。それを知っているからといって恥じることはない。
侘しさと自信とのあいだを行き来しながら、修子が待合わせの六本木の小料理屋に着いたのは、七時少し前だった。
カウンターと、小上りが二つあるだけの小さな店である。暖簾《のれん》を分けてなかへ入ると、要介はすでにきて、カウンターの端で待っていた。
「ご免なさい、遅れて……」
「店を間違えたかと思いました」
これまで、食事というと、要介は決って洋食のレストランを指定する。理由をきいたわけではないが、そのほうがムードがあると思っているのかもしれない。
だが修子は、どちらかというと洋食より和食のほうが好ましい。それで今夜は修子のほうで決めて、そこへ要介に来てもらうことにしたのである。
「なかなか、しゃれたいい店ですね」
「でも、小さいでしょう」
「こんな店は、教えてもらわなければ、なかなかこられない」
修子は鉢巻きをした威勢のいい主人に、今夜のおすすめ品だという|すずき《ヽヽヽ》の刺身と燗酒《かんざけ》を頼む。
「ここには、よくくるんですか」
「たまにね……」
この店は、三年前に遠野に連れられてきたのが初めてである。それ以来、二人でときどき食べにくる。
「やっぱり、こういうところで食べるほうが粋《いき》ですね」
要介は気に入ったらしく、カウンターに片肘ついて酒を飲む。
「ところで、“釣瓶落し”って、知ってますか」
修子がきくと、要介はしばらく考えてから答える。
「それは、陽が沈むのが早いことをいうんじゃありませんか」
「よかった、知っていてくれて……」
さすがは同年代である。修子は安心して盃で乾盃する。
要介と会うのは、修子の誕生日のあと、赤坂で会って以来である。
その直後に、詫びの電話があって食事を誘われたが、修子は忙しいという理由で断った。食事をするくらいの暇がなかったわけではないが、あの深夜の電話は失礼すぎる。それを懲《こ》らしめるには、しばらく無視したほうがいい。
この修子の気持は、要介にも通じたようである。その後も何度か詫びの電話がきて、修子はようやく食事をすることを承諾した。
要介と対していると、修子はときに、自分が女王様になったような錯覚にとらわれるときがある。同じ年齢なのに、相手は修子のいうとおりに従うだけである。もう少し毅然としたらどうかと思うが、それは修子が年上の男性と際《つ》き合いすぎているせいかもしれない。
頼りない人だと思いながら、一方的に慕われる状況も悪くはない。男を手玉にとるというほどでもないが、いいなりになる男がいるということは自尊心を満足させてくれる。
今夜も初めのうちは、要介はひたすら低姿勢であった。改めて深夜の電話の非礼を謝ったあと、会社のことや、最近、出張で行ってきた北海道のことなどを話す。内容がとくに面白いわけではないが、修子の機嫌をとろうとしているのがはっきりとわかる。
だが酒を飲むうちに要介も勇気がでてきたのか、次第に修子の個人的なことに探りを入れてきた。
「あなたは最近、なにが面白いですか」
初めはそんな質問から始まった。
「面白いことといっても、この年齢《とし》になると、子供のときのように、心がときめくようなことはなくなったわ」
要介はいったんうなずいてから、今度はべつの方角から尋ねてくる。
「いま、なにに一番興味をもっていますか?」
「このところ、ずっと、名作といわれた古い映画を見てるわ」
「映画館でですか」
「もちろんビデオでよ。“哀愁”とか“慕情”とか“カサブランカ”とか白黒の映画も悪くないわ」
それらの映画を要介はほとんど知らないようである。しばらく黙りこんでから、最近見た映画の印象などを喋りだす。
だが要介が本当に話したいのは、映画のことではなさそうである。また思い出したように別の質問をする。
「最近、恋愛のほうはどうですか?」
「どうって?」
「好きな人は、いないの?」
深夜に電話をよこして以来、要介はそのことについて尋ねる機会を窺《うかが》っていたようである。
だが逢ってすぐは尋ねず、いま修子が関心を抱いていることなどを聞きながらじわじわと迫ってくる。修子はそんな要介の態度が不満である。男なら、もっとずばりときいてくればいいのに。
だがこのあたりが、若い男に共通する自信のなさであり、優しさなのかもしれない。
「わたしに、好きな人がいると思いますか?」
逆に修子のほうから尋ねながら、少し悪戯《いたずら》心が芽生えてくる。
「よくは、わからないけど……」
「じゃあ、たしかめにきますか?」
「どこへ?」
「わたしの部屋に」
「これから、行ってもいいんですか?」
「気になるのでしたら、どうぞ」
要介は呆気《あつけ》にとられて、修子を見る。
その顔を見ながら、修子は部屋で遠野が待っている姿を想像する。
もし遠野がいるのを知ったら、要介はなんというだろうか。遠野は大人だから、黙って招き入れるかもしれないが、要介は逃げだすかもしれない。
「じゃあ、行きましょうか」
お酒の勢いをかりて、修子は次第に大胆になる。
要介と一緒に車に乗ってから、修子はこれからのことを考える。
昨夜は、遠野は泊らなかったから、部屋に彼のものは散らばっていない。男もののパジャマもジャケットも、箪笥《たんす》のなかに仕舞いこんである。男の名残りを思わせるものは、せいぜい灰皿と煙草くらいだが、それらはときに修子も喫うから、見付かっても問題はない。
「まさか、マンションの前で、“帰れ”というわけじゃないでしょうね」
要介はまだ半信半疑らしい。
「もちろん、お気に召さなければ帰ってもいいわ」
「いや、部屋に入れてもらえるだけで光栄です」
「コーヒーしかないけど」
「そんな、長居はしません」
車がマンションの前に着くと、要介は用心深そうにあたりを見廻してから、修子のあとについてきた。
「大分、ボロのマンションでしょう」
「そんなことはありません」
エレベーターをおりて廊下を行き、部屋の前で新聞を引き抜いてからドアを開ける。
「どうぞ……」
要介は不安そうになかを窺いながら、そろそろと入ってくる。
「少し蒸し暑いわね」
修子は明りをつけ、ベランダを少し開ける。
「そちらのソファはいかがですか」
いわれたとおり、要介はソファに坐ってからうなずく。
「やっぱり、僕が思っていたとおりだ」
「なにがですか?」
「部屋がとても綺麗で、落着いている」
「掃除をするしか、能がないんです」
「僕は初めから、あなたは綺麗好きな人だと思っていました」
「コーヒーで、よろしいですね」
自分の部屋に、遠野以外の男を入れたのは初めてである。ここへくるまで、修子はそのことにあるうしろめたさを感じていたが、いまはさほどでもない。
「テレビをつけましょうか」
スイッチを押すと、南米奥地を探る旅の番組が流れている。要介はそれを見ながら、コーヒーを飲む。
「ここで、毎晚、なにをしているのですか」
「なにをって、いろいろとすることがあるわ」
「この奥に、もう一部屋あるのですか」
「寝室だけど、狭くて……」
「しかし一人じゃ充分じゃありませんか。僕の会社の仲間でも、都内でこんな静かなところに住んでいる人はいませんよ」
「あなたは、蒲田でしょう」
「僕はまだアパート住まいです。汚いところですけど僕のところにも是非きて下さい」
要介はそういってから、自分の部屋の様子やまわりの人々のことを話す。
修子はそれをききながら、再びここに遠野が現れたときのことを想像する。
突然、酔って遠野が帰ってきたら、要介はどんな顔をするだろうか。いやそれ以上に、遠野はなんというだろうか。むろん悪いことをしているわけではないから、いいわけはきく。
考えるうちに、修子はさらに大胆になってくる。
いっそ、二人がぶつかって、睨《にら》み合う情景など見てみたい。
突然、要介が立上った。
「トイレは、向こうですか」
「そのバスルームの左手よ」
そのまま修子がテレビを見ていると、要介が戻ってきた。
「あのう、ウイスキーを一杯だけ、もらえませんか」
「コーヒーだけの約束だったわ」
「でも、一杯だけ……」
前の店でお酒を飲んだはずなのに、要介の顔は少し蒼《あお》ざめている。なにか内側から湧き出てくるものを抑えているといった表情である。
修子はグラスに冷たい水を満たしてテーブルの上においた。
「これが、ウイスキーの替りですか」
「喉が渇きませんか」
「こんなもので、僕の気持は落着きません」
トイレに立ったのを機に、要介の態度は少し変ったようである。どこというわけではないが、急に無口になって不快そうである。
「なにか、具合でも悪いのですか」
「少し、あなたのことをきいてもいいですか?」
要介は水を一気に飲み干すと、検事のような口調になる。
「あなたは、本当にここに一人でいるのですか」
「もちろんよ、どうして?」
要介は自らを落着けるように一つ息をつく。
「あなたは不思議な人ですね、僕にはよくわかりません」
「どうなさったのですか」
「いま、僕ははっきりわかりました。ここには男の人が来ますね」
少し酔っているはずの要介の顔が、蛍光灯の下で蒼ざめて見える。
「僕はわかったのです」
突然、要介は自分でたしかめるようにバスルームのほうを指さした。
「あそこに剃刀《かみそり》がありました」
バスルームの手前に洗面台があり、そこに黒革のケースに入った遠野の剃刀がおいてある。いわれて気が付いたが、トイレに行ったときに要介はそれを見たようである。
「正直にいって下さい」
「………」
「隠しても、わかります」
要介に問い詰められて、修子は急に腹立たしくなってきた。
この部屋になにがあろうと、ここは自分の部屋である。そこに勝手に入ってきて、男ものの剃刀があるからといって、とやかくいわれる理由はない。
「あれは男ものですね」
「ご想像にまかせます」
「やっぱり……」
要介はゆっくりと髪を掻き上げる。
「前から、可笑《おか》しいと思っていました」
「車を呼びましょう」
「僕を追い返すつもりですか」
「今日はもう、帰られたほうがいいわ」
「まだ、話は終っていません」
修子はかまわずタクシー会社に電話をして住所を告げる。
「誤魔化さないで、聞いて下さい」
要介はまだ剃刀のことに拘泥《こだわ》っているようである。
「前から変だと思っていたけど、まさかそんなことをしているとは……」
「あなたは一体、なにをいいたいのですか」
「僕が思っていたとおりだということです。あなたはここで、誰か他の男と一緒に棲んでいる」
「違います」
「だって、あの剃刀が絶対の証拠でしょう」
「たしかに男のものですが、一緒に棲んでいるわけではありません」
「じゃあ、ときどきここにくるわけですか」
「………」
「その人を好きなのですね」
「そんなこと、あなたに答える必要はないわ」
要介は鋭く修子を睨んだが、すぐ呆れたように溜息をつく。
「あなたが、そんな人とは知りませんでした。まさか、そんなふしだらなことをしているとは……」
「ふしだら?」
修子は顔を上げてきき返した。
「なにが、ふしだらなのですか」
「その人と、結婚するのですか?」
「別に……」
「結婚する当てもないのに、際《つ》き合うのはふしだらでしょう」
「そんなことはないわ」
「じゃあ、その人を愛しているのですか?」
「愛してるわ」
思いがけない強いいい方に、要介はたじろいだようである。態勢を立て直すようにテーブルの上にあった水を飲む。
「それなら、何故結婚をしないのですか。相手の人もあなたを好きなのでしょう」
「………」
「好きで、剃刀までおいていく人なら、結婚すべきでしょう」
急に修子は可笑しくなった。まだ若いのに、要介のいうことは意外に古風である。なにやら老人の説教をきいているような理屈っぽさである。
「好きでも、一緒にならない場合もあるわ」
「そんなのは、嘘だ」
修子が笑いかけたのを知ってか、要介はさらに大きな声でいう。
「そんなの、誤魔化しです」
「違うわ」
「わかった。その人は妻子がある人なのでしょう。正直にいって下さい。あなたよりずっと年上で結婚しているのでしょう」
相手の攻撃が強くなればなるほど、修子も次第に開き直ってくる。
「そのとおりよ」
「あなたは、それで満足しているのですか」
「満足よ」
「そんな結婚もできないような、妻子ある男と際き合って楽しいのですか」
「楽しいわ」
「しかし、その人とは将来も結婚できる可能性はないわけでしょう」
「別に、結婚だけがすべてじゃないわ」
要介は結婚ということに拘泥りすぎる。あるいは自分が独身で、いますぐ結婚できることが唯一の強みなので、ことさらにそれを強調するのかもしれない。
「じゃあ、ただ遊んでいるだけなのですね」
「そう思いたければ、思われても結構よ」
「真面目に考えて下さい」
要介の目が怒りで輝いている。
「茶化すのは卑怯です」
「茶化してなんかいないわ」
「じゃあ、何故、その人と結婚しないのですか。もし本当にお互いが好きなら結婚できるはずでしょう。それとも絶対に結婚できない理由でもあるんですか」
「あるんじゃなくて、しないのよ」
「しない?」
「そう、しなくていいの」
「どうして?」
「世の中には、あなたと同じ考えの人ばかりじゃないわ」
要介はなお納得しかねるように考え込んでいる。その戸惑いもわからぬわけではないが、彼のように、なんでも結婚がベストという考えは鬱陶しい。
「さあ、もう下に車がきてるわ」
先程、電話をしたときは五、六分で着くといっていた。
「お帰りになったほうが、いいわ」
促すように、修子が先にドアのほうへ步き出すと、要介もしぶしぶ立上った。
「タクシーのナンバーは二一五よ。マンションの前に停っているはずです」
要介は返事もせず、沓脱《くつぬ》ぎの前で突っ立っている。
「早く、行ったほうがいいわ」
修子がサンダルをはいてドアを開けようとした途端、いきなりうしろから抱きしめられた。
不意をくらって修子はよろめき、サンダルの片足をはずしたが、要介はかまわずおおいかぶさってくる。
「なにをするの……」
腕を振りほどこうとするが、締めつける力で息が詰まり、次の瞬間、要介の顔が目前に迫ってくる。修子は首を左右に振り、手をばたつかせたが、頬から首にかけてべたべたと要介の唇が触れてくる。
「やめて……」
修子はさらに身を屈《かが》め、要介の腕の輪から抜けだすと、這うようにしてリビングルームへ逃げ出した。そこで呼吸を整え、振り返ると、要介はまだ沓脱ぎの手前の踊り場に突っ立っている。
修子は乱れた髪を整え、開いた胸元を合わせながら叫んだ。
「帰って……」
いくら気持が高ぶったからといって、暴力で手籠《てご》めにしようとするのは勝手すぎる。
「帰って下さい」
要介はなお激情から醒めやらぬように、両手をだらりと下げたままこちらを見ている。
自分で自分のやったことがわかりかねているようである。
「車が待っています」
今度は少し優しくいうと、要介はゆっくりと床の上に落ちていた鞄を拾い上げた。そこでもう一度、虚《うつ》ろな目差しで修子を見ると、黙ってドアを開けて出ていった。
一人になって、修子は改めて身のまわりをたしかめた。
要介の腕の中で逆らったとき、ブラウスの胸のボタンが一つとれ、袖口が破れたようである。さらに顔全体に、唇で触れられたあとのぬめぬめした感触が残っている。
まったく、思いがけない襲撃であった。
これまで要介はいつも紳士的であったから、まさかと思ったが、やはり男はいったん興奮するとなにをやりだすかわからない。見方によっては、それも好意の表れといえなくもないが、それにしても強引で勝手すぎる。
好きならもう少し手順を踏んで、優しく近付いてくれなければ女は受け入れる気持になれない。ましてやいまのように闇討ちでは、許すどころか嫌悪感ばかりが増してしまう。
それにしても他の男性が部屋に出入りしているのを知って挑んでくるとはどういうわけなのか、そんな女はふしだらだといっていながら、抱きついてくる。あれでは、女なら誰でもいいということではないか。それとも他の男性と際き合っていることを知って逆上したのか。
「わからない……」
つぶやきながら、床に落ちているボタンを拾って胸元で合わせていると電話のベルが鳴った。
このところ、無言の電話はいくらか減っていた。
修子が受話器をとったまま黙っていると、男の声が返ってきた。
「もしもし……」
その一言で、遠野とわかる。
「どうしたんだ。なにかあったのか?」
「いえ、なにも……」
「いま銀座だけど、これからまっすぐそちらに行く」
「………」
「いいだろう」
念をおされて、修子は初めて気がついたようにうなずく。
「わかりました」
受話器をおいて、時計をみると十時半である。
これから遠野が部屋にくるまでは小一時間かかる。修子は浴槽に湯をとり、風呂に入った。
要介の感触が全身にべとついたような気がして、とくに念入りに洗う。
風呂から上ってドライヤーで髪を乾かしていると、チャイムが鳴って遠野が現れた。
「お帰りなさい」
修子は久しぶりに懐しい人を見るように、遠野を見上げた。
「どうしたんだ」
「なにが?」
「いつもより優しいから……」
遠野が鞄のなかから、修子の好物の、麹町のレストランでつくっているクッキーを取り出す。
「ありがとう、あのお店に行ってきたんですか?」
「三光電器の担当者達とね。今度二人で行こう」
「はっきり、日を決めて」
修子は急に甘えたい気持になっていた。
「じゃあ来週の半ば、水曜日はどうだ」
「約束したわよ」
「風呂に入ったのか」
遠野が香りをたしかめるように顔を近付けてくる。それとともに修子は自分から彼の胸の中に入っていく。
「シャンプーの匂いがする」
遠野の胸は煙草と汗がまじったような匂いがするが、そのなかに顔をうずめていると自然に気持が和んでくる。
「ねえ、接吻をして」
「今日は、おかしいぞ」
明るすぎるせいか、遠野が照れたように笑い、それから唇の先で軽く触れる。
「今日はどうしたんだ。誰かと浮気でもしてきたのか」
「わたしが、そんなことをするわけがないでしょう」
「そうかな……」
「じゃあ、してもいいの」
「いや、困る……」
今度は深い接吻を交してから、ゆっくりと体を離す。
「怪しい電話はなかったか?」
「今夜は、まだよ」
修子は遠野の脱いだスーツをハンガーに掛け、ナイトガウンを出す。
「お風呂に入りますか」
「いや、いい。それよりビールを一杯欲しい」
修子が冷蔵庫からカンビールを取り出して、グラスに注ぐ。
「うまい、一杯どうだ」
「いただこうかな」
風呂上りのあとで、修子も飲みたかった。
「今夜は、なんとなく色っぽいな」
遠野が改めて修子を見る。その視線から避けるように、修子は残ったビールを一気に飲み干す。
「なにか、生き生きとしている」
「あなたに、逢えたからよ」
「いつだって、逢ってるじゃないか」
遠野は苦笑するが、修子はようやく逢えたような気がしている。
「クッキーは食べないのか」
「もう遅いから、一つだけいただこうかしら」
「俺も一つ食べてみよう」
クッキーの箱をあける修子の頭の中から、要介のことはすでにあとかたもなく消えている。
夜、遅く帰ってきたとき、遠野はそのまま眠ることが多いが、その夜は初めから積極的であった。先に遠野がベッドに入り、修子が横にくるのを待っていたように求めてきた。
むろん修子は素直に受け入れた。
遠野の愛撫は激しくはないが、的確であった。年輪を思わせるようにゆっくりと愛撫を重ねながら、確実に快楽の淵へ導いていく。
修子のどこに触れ、どこを押せばどのような反応が表れるか、すべて承知しているようである。
自分の体でありながら、修子は遠野に翻弄されている自分を感じていた。
自分以上に、遠野はわたしの体を知っている。ときに、修子はそのことに口惜しさを感じながら、一方で安心してもいる。
とやかくいっても、修子の体を目覚めさせてくれたのは遠野である。遠野という探険家によって、修子という大地は拓かれたようである。
それ以前、修子は処女ではなかったが、まだ未開の荒地であった。さまざまの可能性を秘めながら、密林のなかにうずもれていた。それを切り拓き、緑あふれる沃野《よくや》にしたのは遠野である。
今日の開花は、まさに遠野の努力の結晶である。未開の大地に、初めこそ傍若無人にのりこんできたが、それからは汗水垂らしての努力がつづいた。
実際、行為が終ったいまも、遠野は全身に汗を滲《にじ》ませたまま、岸辺に打上げられた藻のように横たわっている。
一時、翻弄されたのは修子であったが、気がつくと遠野のほうが精気を失っている。
修子はそのことに、ある済まなさと愛着を覚える。それほどまで真剣に、自分に愛撫をくわえてくれた男の努力に感謝するとともに、その一途さに感服する。
もっとも遠野自身は、二人の行為をそのようには解釈していないようである。彼はあくまで初めの状況に拘泥《こだわ》り、翻弄したのは自分で自分が緑の大地を制圧したと思いこんでいるらしい。
男がそう思いたいのであれば、そう思えばいい。それで男と女の立場がどうなるわけでもない。
だがいずれであれ、いま、女は新しい水を得たように輝きを増し、男は刀折れ矢尽きたように息を潜めていることはたしかである。
考えてみると、遠野の愛を受ける度に、修子は美しくなってきたようである。二十代の後半から三十代にかけて、修子は着実に女の柔らかさと艶めかしさを増してきた。そのことは、毎朝、鏡に向かうときによくわかる。抱かれて満たされたあとの朝は肌が潤い、化粧ののりがいい。逆に満たされていないときには、かさかさと肌が乾いて艶がない。
修子は、そんなことで変る自分が不思議で不気味である。自分の体がそんな単純な面をもっていることに感心し、呆れる。
いずれにせよ、修子と遠野の関係は、独身の女と妻子ある年上の男、というだけのものではない。その内側には、二人だけが認めあっているさまざまな絆《きずな》がある。
修子はそれに拘泥る気はないが、無視すべきだとも思わない。
なににでも歴史があるように、二人のあいだにも、今日まで続いてきた、それなりの歴史がある。
このごろ結ばれたあと、修子は寝そびれることがある。いままでなら遠野の腕に抱かれたまま、眠りについたのが、気がつくと一人だけ覚めている。
もっとも、体には燃えたあとの気怠《けだる》さとともに、甘い余韻がくすぶっている。すぐにそれを消すのは惜しいと思っているうちに、目が冴えてきて、寝そびれてしまう。
今夜の修子もそれと同じである。
もう少し余韻を楽しんでいたいと思っているうちに遠野は眠り、修子一人、取り残されている。
枕元の小さな明りだけの部屋で、遠野は憎らしいほど小気味よい寝息をたてている。今夜はあまり飲んでいないせいか、鼾《いびき》というほど高くはない。
修子はその寝息をききながら、今日一日のことを回想する。
会社は決算期を迎えて忙しかったが、取り立てていうほどのことはなかった。
ただ社長が昼休みの前に、来客がいなくなったところで修子に尋ねた。
「君は結婚する気はないのかね」
突然だったので、修子は戸惑いながら答えた。
「ないわけでは、ありませんが……」
「実は、僕のよく知っている男から頼まれたんだがね……」
いつもてきぱきと指示する社長には珍しく歯切れが悪い。男はこういうことをいうときは照れるのだろうか。
「いい男がいるんだが、君にどうかと聞かれたものだから……僕もその相手には会ったことはないんだが、写真ぐらい見る気はあるかな」
曖昧《あいまい》ないい方だが断る理由もなさそうなので、修子はうなずいた。
「ありがとうございます」
「じゃあ、今度、写真を持ってきてもらってもいいね」
「わたしのようなお婆さんでもよろしいのですか」
「君に憧れている男性は多い」
社長はそれだけいうと、外人との昼食会に出ていった。
誰であれ、自分を見初《みそ》めてくれる人がいることは感謝すべきかもしれない。このところ、しばらく見合いの話などなかったので少しどぎまぎした。
しかし社長に、「好きな人がいるのか?」ときかれたら、なんと答えたろうか。もちろん、「います」とは答えないが、といって即座に否定するわけにもいかない。曖昧に首を横に振ったかもしれないが、勘のいい人なら察するかもしれない。
いずれにせよ、修子はその話をきいて少し心が華やいだ。まだ写真さえ見たことのない相手なのに、自分を見初めた人がいると思うだけで心が浮き立った。
だが修子はそのことを、要介にも遠野にもいわなかった。初めから要介には関係のないことだし、遠野にいうと、なにか、こちらから迫っているようにとられかねない。そんな話は初めからなかったものと思って、聞き流しておいたほうがよさそうである。
だが要介と食事をしながらも、そのことは、修子の心の中で微妙な影を落していたのかもしれない。
食事をして飲むうちに、修子は次第に気持が大きくなり、要介を自分のマンションにまで連れてきてしまった。初めは軽い気持からだったが、途中から深刻な話になり、最後はあと味の悪い別れ方になってしまった。
彼が帰った直後は、強引に迫られた嫌悪感だけが渦巻いていたが、いま落着いてみると、要介に少し悪いことをしたような気もする。
そのときは強引で身勝手な人と思ったが、そんな状況に追いやったのは、修子の責任でもある。そもそもは悪戯《いたずら》心をおこして部屋に入れたのが間違いの因《もと》であった。
要介とあんな別れ方をしたのも悲しいが、それ以上に、これからいままでのように気軽に会えなくなったことのほうが淋しい。むろん彼と結婚する気なぞなかった、同年代の好ましい友達だと思っていた。その友達と以前のように際き合えなくなったのは残念である。
とりとめもなく考えていると、突然、遠野の寝息が止り、大きな山でも動くように肩口がゆっくりと動いて寝返りをうつ。再び寝息が戻ったところで、修子はうしろから遠野の背に顔を寄せた。
とやかくいっても、この人の横にいるときが最も心が安らぐ。
要介が帰ったあと、遠野を見たとき、修子は父親に会ったような安堵を覚えた。この安心感は、好き嫌いをこえて、一つの慣れのようなものかもしれない。理屈ではなく、肌が馴染み合った果ての|たしかさ《ヽヽヽヽ》とでもいうべきものかもしれない。
「このままわたしはずっと、この人に従《つ》いていくのだろうか……」
闇の中で自分にきいてみるが、寝室には遠野の単調な寝息が続いているだけである。
修子は眠ることにした。このまま寝そびれると、明日、寝不足の顔のまま出勤しなければならなくなる。
修子はベッドを抜け、リキュールを一杯飲んだ。
グラスを流しに戻し、ベッドに戻りかたけとき、また電話のベルが鳴った。
このところ、無言の電話のために修子は夜間も電話をリビングルームのほうにおいたままである。寝室とのドアを閉め直してから受話器をとると女の声だった。
「もしもし、起きてた?」
とびこんできたのは絵里の声だった。
「ご免なさい、こんな深夜に」
いわれて時計を見ると、一時半である。
「いま、話していい?」
「いいわよ」
修子は電話のコードを延ばして、ソファに坐った。
「実はね、今日、悟郎と会ったの」
絵里は夫と別れて、五歳になる男の子を引き取っているが、一年前から辰田悟郎というカメラマンと際き合っていた。絵里より辰田のほうが一歳年下なので、初めから彼のことを「悟郎」と呼んでいる。
「彼が、ぜひ結婚したいっていうのよ」
そんな話かと、修子は拍子抜けしたが、すぐ切るわけにもいかない。
「よかったじゃない、あなたもそれを望んでいたのでしょう」
「ところが条件があるの。結婚はするけど、子供はおいてきて欲しいっていうのよ」
修子は肌寒さを覚えて、パジャマの上にカーディガンを羽織った。
「ひどいと思わない?」
悟郎は絵里好みのすらりとしたハンサムだが、まだ若いだけに、いきなり五歳の男の子の父親になるのは気が重いのかもしれない。
「わたしを本当に好きなら、子供も一緒に引きとるべきでしょう。そんなの、まやかしだと思わない」
「でも、男の人の本心って、そうなんじゃないの」
修子がいうと、絵里の甲高い声が返ってきた。
「なにをいうの……他人《ひと》のことだと思っていい加減なこといわないで」
「別に、そんなつもりでいったんじゃないわ」
「彼は前から、わたしが離婚して子供がいることを知ってるのよ。それを承知で結婚しようといいながら、いまさら、子供はいやだってことはないでしょう」
どうやら絵里は少し酔っているようである。さらによく聞きとれぬことをつぶやいてから断言するようにいう。
「大体、あなたは冷たいのよ。結婚して子供をもったことがないから、他人の子を犬の子でも捨てるように、簡単にいえるのよ」
「あなたにきかれたから、答えただけよ」
「わたしが克彦を離したら、克彦はどうなるのよ」
「でも、前のご主人が、克彦君を欲しいといってるんでしょう」
「あんな男に、克彦を渡せると思う? あんな自分勝手な男に……」
それなら自分で考えたほうがいい。修子が黙っていると、突然泣き声になる。
「とにかく、わたしは克彦を離さないわ。そんな酷《ひど》いことは断じてできない、そうでしょう」
「彼は、克彦君が自分になつかなかったり、新しい子供が生れると面倒だと思ったんじゃないの」
「でも、それが男のつとめでしょう。まだ結婚もしない前から、面倒だなんてひどいわ」
「………」
「とにかく卑怯よ、わたしを、さんざん利用しておきながら……」
「それは、違うんじゃない」
絵里からきいたかぎりでは、初めに悟郎に近付いていったのは絵里のほうである。その後、撮影の仕事などで悟郎は多少、絵里の助けをかりたかもしれないが、それをいまもちだすほうが卑怯である。
「そんなことをいいだしたら、泥仕合になるわ」
「でも、口惜しいからいってやったわ。あなたは、わたしと寝ることだけが目的だったのって……」
「そんな……」
彼とうまくいっているときは惚《のろ》け、うまくいかなくなると寝ることだけが目的だった、などと叫ぶ。絵里ほどの聡明な女も、恋に狂うと、そんなことをいうのかと思うと気が滅入る。
「もっと、落着いて、時間をおいて考えたほうがいいわ」
「こんな状態になって、どうして落着いていられるの」
「だって、まだ結婚の申し込みを受けただけでしょう」
「駄目よ、もう大喧嘩をしてしまったから……」
絵里の声は急に力がなくなる。
「わたし、どうすればいいの……。ねえ、教えて」
「まだ彼を愛しているのでしょう」
「そりゃ……」
「でも、彼は子供をおいてきて欲しいというわけね」
「そんなこと、絶対にできない……」
絵里のすすり泣きが受話器から洩れてくる。順調にいっていると思った二人のあいだにも、問題は潜んでいたようである。
「とにかく、両方とるのは無理ね」
「そんなこといわずに、真剣に考えてよ」
「じゃあ、一つだけ方法があるわ」
「なによ、早くいって」
「いままでどおり、彼と結婚しないで恋人同士でいたら」
「恋人同士?」
「結婚しようとするから、難しくなるのよ」
「あなたって……」
絵里は絶句したようにしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「なるほどね」
「そうでしょう」
「簡単なことね」
「そうよ、簡単よ」
急にすすり泣きがとまり、考えこんでいるのか受話器の声が途絶える。
「ねえ、わかった?」
「でもそれじゃ、わたし達、永遠に他人よ」
「結婚して憎み合うより、恋人同士で愛し合ってるほうがいいでしょう。あなたが教えてくれた、メトレスよ」
フランス語で愛人のことをメトレスというのだと、教えてくれたのは絵里である。
「あなたは立派に自立しているのだから、そういうことになるでしょう」
「もちろん、わたしは自立してるけど、向こうはただのアマンよ」
「男の愛人のこと?」
「そう、むしろわたしのほうが面倒を見てるわけだから……」
そうとは思っていたが、堂々といいきるところが絵里らしい。
「あなたが羨ましいわ」
「それよりもっと気楽に考えたら」
「気楽にねえ……」
絵里がうなずくのをききながら、他人のことだから冷静になれるのだと、修子は自分にいいきかす。