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愛人~薄陽

时间: 2017-06-26    进入日语论坛
核心提示: 薄  陽 暮れかけた冬陽《ふゆび》を受けて、電車が遠ざかって行く。忍び寄る冷気のなかで鈍く光る線路がゆっくりと左へカー
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  薄  陽
 
 暮れかけた冬陽《ふゆび》を受けて、電車が遠ざかって行く。忍び寄る冷気のなかで鈍く光る線路がゆっくりと左へカーブしている。ホームの端で、修子がそれを眺めていると、彼方から新しい電車が同じカーブを描きながら近付いてきた。
 日曜日の夕暮れどきだが、私鉄と交叉する駅のせいか、車内はかなり混んでいる。平日と違って家族連れや若い二人連れが多い。修子はその中程に立って吊り革にもたれながら軽い疲れを覚えた。
 今日は昼から眞佐子の家に招かれて、午後のいっときを過ごしてきた。
 眞佐子も夫も甲斐甲斐しくもてなしてくれて、とくに眞佐子は修子の好物のクラムチャウダーとチーズケーキを作って待っていてくれたし、眞佐子の夫は自慢の洋蘭を見せてくれたうえ、何枚も写真を撮ってくれた。さらに帰りには、わざわざ自分の車で駅まで送ってくれた。
 二人が心から歓待してくれているのはわかったが、修子は一人できたことを悔いていた。
 眞佐子の結婚後、品川の彼女の家を訪れるのははじめてなので、当初は絵里と二人で行く約束になっていた。日曜日の昼に渋谷で落合う時間まで決めていたのに、絵里に急な仕事が入って行かれなくなった。
 当日の朝それを知って、修子もやめようかと思ったが、眞佐子は、修子一人でもいいから来て欲しいという。
 それでやむなく出かけたが、やはり一人で行ったのは間違いだったようである。
 眞佐子と夫が、仲睦まじく尽してくれればくれるほど、修子は孤独を感じた。むろん二人の前ではそんな素振りは見せず、彼等に合わせて明るく話し、笑ったりもした。途中からでてきた四歳の子供を抱き、一緒に写真に写ったりもした。幸せ一杯の新婚家庭に招かれて、修子も満ち足りた表情をつくって見せたが、正直いって、幸せすぎる二人を見すぎたのかもしれない。
 むろん眞佐子と夫が、これ見よがしに振舞ったわけではない。それどころか、修子を一人にさせぬよう、いろいろと気をつかってくれているのがわかった。
 しかしそんな思いやりがわかればわかるほど、修子は居辛くなった。
 そのうち、眞佐子が少し甘えて「あなた……」とか、「うちの主人が……」という言葉さえ気になってきた。
 さらには眞佐子の夫が、「今度は、修子さんが結婚する番だなあ」とか、「もしよかったら、僕の友人を紹介したいけど」といった言葉まで胸にひっかかってくる。
「どうぞ、わたしのことなど放っといて、お二人でご自由に仲良くなさって下さいませ」
 修子はそういいたい気持をおさえて苦笑した。
 もしここに絵里がいたら、「修子には修子の生き方があるわよ」と、ぴしゃりといってくれたかもしれない。あるいは「あまり見せつけないでね……」と、やんわり皮肉ったかもしれない。
 途中から、修子は仕事にかこつけて逃げた絵里を怨んでいた。
 要領のいい絵里のことだから、初めからつまらないとみて急な仕事をつくったのか。まさかそこまで企むとは思えないが、二人の歓待を一身に受けて、修子はいささか疲れてしまった。
 二時間ほどいて、帰ろうとすると、まだ早いからといって引きとめられ、三時を過ぎてようやく解放してもらった。
 つい二カ月前まで、眞佐子は最も親しい友人であった。絵里と三人組といっても、心情的には眞佐子のほうに親近感を抱いていた。
 だがいまは、眞佐子ははるかに遠い存在になったようである。
 それも仲違《なかたが》いしたり、喧嘩をしたわけではない。相変らず眞佐子は誠実で子供じみた稚《おさな》さももっている。
 だがその誠実さは、自分一人で満足している誠実さで、いまの修子にはむしろ鬱陶しい。
 もし眞佐子が責められるとしたら、その押しつけがましさに気付かず、相手も自分と同様、楽しんでいると思っている無神経さである。
 それも眞佐子は悪気でやっているわけではなく、誠心誠意よかれと思ってやっているのである。
 そのことはよくわかりながら、修子のなかで少しずつ渣《おり》のようにたまっていくものがある。別に嫉妬するわけではないが、なにか自分と馴染めぬ世界にいるような苛立ちにとらわれた。
 いま一人になって感じる疲れは、そういう世界で無理に笑顔をつくってきた反動のようでもある。
 それにしても、眞佐子は結婚して本当に幸せそうである。もともと、女は結婚するものと信じ、結婚して家庭に入ることになんの疑いももっていなかった彼女のことだから、当然かもしれない。
 初め眞佐子の婚約をきいたときは、相手が再婚で子供までいるので、うまくいくかと心配したが、それは杞憂に終ったようである。
 幸せになれてよかった、と思うが、もし修子も同じ条件で結婚するかときかれたら、首を捻《ひね》らざるをえない。
 たとえ眞佐子がうまくいったからといって、自分もうまくいくとはかぎらない。眞佐子の幸せを羨ましいとは思っても、単純に同じ道をたどる気にはなれない。
 
 マンションへ戻ると、初冬の短い日はすでに暮れかけていた。
 ベランダを開けて空気を入れ換え、コーヒーを飲みながら、修子は母の年齢《とし》を思った。
 三十三歳のとき、母はすでに自分と弟達三人の子供を抱えて、| 姑 《しゆうとめ》に仕えていた。もともと彼女は絵が好きでデザイナーのような仕事をしたかったようである。
 だが結婚して家庭に入り、育児に追われるうちに仕事をするチャンスを逸し、子育てが終ってからでは自信がなく、そのまま外へ出る機会を失ってしまったようである。
 自分の生き方に悔いが残ったせいか、母は修子が語学を身につけ、仕事をすることに反対はしなかった。年頃に結婚をすることを望んではいたが、仕事をやめろといったことはない。
 そのせいもあってか、修子は好きな人と結婚できても、単純に家庭におさまる気はなかった。それより家庭は家庭として仕事も続けていきたい。欲張っているかもしれないが、子供が生れても、その方針は貫きたいし、それが不可能なような結婚ならしなくてもいい。そう考えているうちに、気が付くと三十歳を越えていたというのが、偽らぬ実感である。
 他人のせいにするわけではないが、修子が独りでいて比較的暢んびりしていたのは、母の轍《てつ》は踏みたくないという思いがあったからかもしれない。
 だが三十三歳という年齢に達したいま、母より充実した生活をしているかと考えると自信はない。
 これまで外資関係の会社で社長秘書として、一応華やかとみえる生活を送ってきたことに悔いはないが、いまの年齢でそれがベストの選択であったともいいきれない。
 短い日が、思いがけなく自分の年齢を思い返させたようである。
 修子は迷いを振り払うようにコーヒーを飲み終えると、午前中にした洗濯物にアイロンを掛け、箪笥《たんす》を整理した。
 そのまま奥の部屋に籠っていると、絵里から電話があった。
「どうだった、眞佐子のところ……」
 例によって、絵里はいきなりきいてくる。
「行かなくて正解よ、あてられて疲れてしまったわ」
 修子が説明すると、絵里は「眞佐子らしいわ……」と苦笑する。
「で、子供はうまくなついているの?」
「ママと呼んでいたから、結構いいんじゃないかしら」
「一度に妻と母親になって、眞佐子も大変ね」
「でも、ご主人がとっても優しい人で、幸せそうよ」
「彼のほうは再婚だから、少し負い目があるのよ」
 絵里は彼女らしい解説をくわえるのを忘れない。
「じゃあ、あなたも早く結婚しろ、といわれたでしょう」
「そのとおり、何度もいわれました」
「新婚ほやほやのくせに、もう先輩|面《づら》しているわけね。眞佐子なんかに威張らせては駄目よ」
「こちらは結婚したことがないんだから、仕方がないわ」
「まさか、弱気になったんじゃないでしょうね」
「そんなことはないけど……」
 修子が言葉を濁すと、絵里が声を低める。
「ところで、彼はどう?」
 遠野のことに話題が変って、修子はソファの上で膝を組み直す。
「あと、一週間くらいで退院するみたいだけど……」
 遠野は大阪の病院に五日間いたあと、ギプスを巻いたまま車で市谷の病院に移った。東京に戻ってからは、遠野が毎日のように電話をくれるので、様子はよくわかる。
 医師の話では、一カ月経てばギプスをはずし、そのあと半月くらいリハビリテイションに通えば、もとどおりになるという。
 当分は骨が接《つ》くのを待つだけなので、ギプスさえ巻いておけば、退院してもかまわないといわれたが、松葉杖でベッドの生活をしなければならないので、そのまま病院においてもらうことにしたようである。
 もっとも遠野は病院に残る理由を、家に戻って妻の世話になりたくないからだといっていた。
 そのまま、遠野は病室に電話を持ちこんで、口頭で仕事の指示をしているらしい。三光電器の仕事や、修子と一緒にヨーロッパに行けなくなったことが気にかかるようだが、それよりもまず一日も早く治ることである。
「あなた、まだお見舞いに行ってないの?」
「………」
 遠野が東京へ戻ってきてから、修子はまだ見舞いに行っていない。
 その前、大阪へ行ったときも、結局逢わずに帰ってきたが、そのことを絵里にはまだ告げていなかった。
「今度のところは、付き添いはどうなってるの?」
「もう大分|快《よ》くなったし、完全看護だから誰もいないわ」
 東京に移ってから、遠野の病室には付き添いがいないようだが、修子の頭からは遠野の妻と娘の顔が消えない。
 たとえいまは付き添いはいなくても、なにかの用事で突然、彼女達が現れないとはかぎらない。実際、病室から動けぬ体では、下着や衣類はもちろん、郵便物や日用品など、家から運ばねばならぬものがあるはずである。妻とは不和といっても、それくらいのものは届けにくるのではないか。
 病室には社員もきているようだが、彼等に会うのも気が重い。社員なら仕事のためという大義名分があるが、修子にはこれといった理由がない。そんな身で、のこのこ出かけていって、夫人に会ったのでは、これまで耐えてきたのが無駄になる。
 病院に行かないのは、修子の遠慮とともに、意地でもあった。
「あなたは、深刻に考えすぎるのよ」
「そんなことないわ、あの人は別の方のご主人ですから」
「それじゃいっそ、初めからあなたの部屋に連れてきたら、よかったのよ」
「なにをいうの……」
「松井須磨子のように。そうしたら向こうも諦めるでしょう」
 大正時代、新劇のスターであった松井須磨子は、妻子ある演出家の島村抱月を愛して同棲した。そのうち、抱月は悪性の流行性感冒から肺炎を併発したが、須磨子は抱月を入院させると、妻子に奪われることを恐れて、芸術座のわきの自分達の部屋から移させなかった。
 だが充分手当てもできぬまま、須磨子が舞台稽古に出ているあいだに、抱月一人、孤独のままに息を引きとった。もし病院に移しておけば、抱月は一命をとりとめたかもしれぬが、須磨子には妻に渡せぬ意地があった。
「わたしは、そんなに強くはないわ」
「でも、そうでもしなければ、奪《と》れないでしょう」
「待って……」
 たしかに修子は遠野を愛してきたが、是が非でも、彼を妻の手から奪いたいと思ったことはない。それが甘いといわれようとも、お人好しといわれようとも、いま逢っているときだけの遠野を愛せたらそれでいい。ましてや、遠野が入院したからといって、それを機会に彼を独り占めしようなどとは思わない。
「また、あなたのお利口さんが出てきたわね」
「お利口とは違うわ……」
「とにかく、一度くらいお見舞いにいったほうがいいわ。向こうも淋しがっているでしょう」
「毎日、電話で話しているから、大丈夫よ」
「でも、顔を見ると見ないとでは違うわ。いまさら恐れることはないでしょう」
 修子がいま、病院に行かないのは、遠野の妻や娘に逢うことを恐れているからではない。むろんそんな状態は避けたいが、それとは別に、これを機会に遠野との関係を考えてみたいと思っているからでもある。
 一体、このまま、遠野との関係を続けていっていいのか。それともこのあたりで別の生き方を探すべきなのか。遠野の入院は、そうしたことを真剣に考える機会を与えてくれたともいえる。
「あなたはやはり、遠野さんが好きなのでしょう」
 修子は少し考えてから、うなずく。
「そうね……」
 好きかときかれたら、「そうだ」と答えるよりない。その答えは、遠野と知り合ったころといまと変りはない。
 だが、「好き」という答えの内容を考えると、微妙な変化が生じているようである。
 いまは「好き」と答えながら、そのなかで少し戸惑っているものがある。かつては遠野のすべてが好きであったのが、いまはある状況で、という条件が必要かもしれない。もっとも、それがどのような条件か、修子もいま一つわからない。
「今度の入院で、彼のほうもきっと考えてると思うわ」
「なにを……」
「あなたのことを。病気なんかになると、改めて、自分やまわりのことがよく見えるようになるでしょう」
「少し、冷静になれるわね」
「冷静に?」
 絵里はきき直してからいった。
「そういう面もあるかもしれないけど、かえって燃え上るものじゃないかしら」
「………」
「もしかすると、大阪まで行ったんじゃないの」
 たしかにあのときは、不安のあまり大阪まで駆けつけたが、いまは少し醒めている。醒めたというのがいい過ぎなら、いくらか落着いて、遠野と自分のことを考えられるようになった、というべきかもしれない。
「どうして、行ったのかしら……」
「そんなこと、あなたからきかれても困るけど、好きだからでしょう」
 そうはっきりいわれるとうなずかざるをえないが、いま修子のなかでおきつつある変化は、修子自身でもうまく説明できそうもない。
 
 一週間、修子はなにも考えずに働いた。
 といっても、秘書の仕事が突然、増えたり、来客が多くなったわけではない。日によって多少の波はあるが、仕事の量はさほど変らない。
 だがやる気になれば、秘書の仕事はいくらでもある。
 たとえば、これまでの来客名簿や新聞切り抜きの整理、戸棚の模様替えなど、暇をみてやりたいと思っていたものに積極的に取り組んだ。さらにはカーテンを明るい色に替え、テーブルクロスとコーヒーセットも買い替えた。
「新鮮な感じになって、気持がいいね」
 社長は素直に喜んでくれたが、それが修子の個人的理由からとは気付いていないようである。ともかく忙しく動き廻っていると、プライベートなことは忘れられる。
 会社にいるあいだ、修子は遠野のことをほとんど思い出さなかった。
 だが夜になると、待っていたように遠野から電話がかかってくる。
 ほとんどが午後八時前後で、この時間帯が消燈前の最もかけやすいときなのかもしれない。
 その日の電話も、八時少し過ぎにかかってきた。
「どうしている?」
 電話はいつも、その一言からはじまる。
「別に、変りないわ」
 修子は普通に答えるが、遠野はその声から、なにかを感じとろうとしているようである。
「忙しいのか?」
 その質問から、今日一日のことを漠然と話しだす。遠野も病院の様子や、自分の仕事のことなどを話す。
 来週早々にはギプスをとってX線写真を撮り、それでよければ退院できること、担当の医師が三十半ばで、遠野と同じ千葉の出身であること、その医師が主任の看護婦と仲がよさそうなこと、今夜は病院食を食べる気がしなくて、寿司の出前をとったこと、などをとりとめもなく話す。
 修子はそれらに相槌をうちながら、ときどきコーヒーを飲む。いつも遠野の話は長くなるので、他のことをしながら暢《の》んびりときく。
 ひとしきり話が終ったところで、遠野が思い出したようにいう。
「今日、そちらから電話をくれるはずだったけど……」
「これから、しようと思っていたのよ」
 いいわけのつもりではなかったが、遠野はそう受けとったのかもしれない。
「病室でも、あまり遅い電話はまずいんだ」
 仕事のために必要ということで、遠野は医師の許可をえて、病室に携帯電話を持ち込んでいた。個室にいるのだから、いつかけてもよさそうなものだが、消燈のあとでは、まわりの病室に遠慮があるらしい。
「明日はどうなんだ?」
 きかれて、修子はスケジュールを思い返す。
「一寸、食事に行くかもしれません」
「誰と?」
「アメリカのお客さまです」
 相手は、会社の新製品の発表会のときに知った、アメリカの工業デザイナーだった。
「二人でか?」
「多分、そうなると思います」
「気を付けたほうがいいな、彼等は手が早いから」
「まさか……」
 たしかに外人は女性の扱い方に手慣れているが、それですぐ口説くというわけではない。それに万一、口説かれたとしても、そんな簡単にのるわけもない。そのあたりのけじめはわかっている。
「何時に帰る?」
「そんなに、遅くはなりません」
「じゃあ、十時に電話をする」
 以前、遠野は修子の行動を制約するようなことはなかった。食事に行くといっても、「そうか……」とうなずくだけで、相手や行先もほとんどきかない。たまにきいたとしても、「あまり遅くなるなよ」というくらいであった。
 それが「手が早い」などというところをみると、入院しているうちに気が弱くなったのか、それとも嫉妬深くなったのか。
「明後日《あさつて》は土曜だけど……」
 遠野が思い出したようにいう。
「午後にでも、病院へ来てくれないか。築地のマンションから、下着と一冊、持ってきて欲しい本がある」
「でも、もうじき退院なさるのでしょう」
「しかし、レントゲンの結果でどうなるかわからない」
「お嬢さまに、頼んだら……」
「あの子はマンションの鍵を持っていない。鍵を持っているのは修だけだ」
「それじゃ、お部屋から取ってきて、病院へ送ります」
「駄目だ、急ぐんだよ」
「明日、朝のうちに取りにいって送れば、明後日には着くでしょう」
「修に持ってきて欲しいんだ」
 どうやら、下着と本が欲しいというのは、修子を呼びつけるための口実のようである。
「修はどうして、病院に来てくれないんだ」
「別に、理由なんかありません」
「じゃあ、いいだろう。ここは個室で誰にも気がねすることはない。もう、二十日以上も逢っていないんだぞ」
 修子の脳裏にまた遠野の顔が甦ってくる。たしかに二十日以上も逢っていないが、修子のなかにある遠野の顔は意外に新鮮である。
「頼むよ、いいだろう」
 修子が黙っていると、遠野がかすかにつぶやく。
「冷たい……」
 瞬間、修子は目を閉じた。
 いま、遠野に逢いに行かないのは、冷淡だからではない。実際、冷たいのなら、こんな話を延々と続けてなぞいない。それより遠野に逢いに行かないのは、修子が自分と交した約束だからである。ここでそれを破っては、自分を裏切ることになる。
 正直いって、修子はその掟を守ることで自分の意志の強さを試している。
 遠野を知ったときから、修子は二人で逢っているときの遠野だけを愛し、それ以外の彼は無縁の人と決めていた。病院に入院しているときの遠野は、その後者の無縁の人である。
 それを無視して逢っては、せっかくの|けじめ《ヽヽヽ》が台無しになり、ひいては修子自身が崩れることになる。
「わたし、冷たくなんかありません」
「それなら、すぐ見舞いにくるべきだろう」
 苛立っている遠野に、いまの気持を正確に説明するのは難しそうである。
「早く快《よ》くなって下さい」
 いま修子がたしかにいえることは、それだけである。
 遠野との電話を切ると、修子はいつも軽い疲れを覚える。
 彼との電話が長かったのにくわえて、話しているうちに、遠野の妻と娘の顔が浮かんでくるからである。二人がいま、遠野の側に寄り添っているわけでもないのに、どういうわけか、彼の身近にいるような気がしてくる。
 修子がそんな錯覚にとらわれるのは、入院している遠野の姿が弱々しく、家庭的な印象を与えるからかもしれない。どういうわけか、ベッドに横たわっている姿やギプスを巻かれた脚は、日頃のばりばりと仕事をこなす遠野とは違った、家庭という場に戻った父や夫のイメージを思い出させる。
 この数年間、修子が遠野に抱き続けてきたイメージは、強く逞《たくま》しく、そして包容力のある孤高の男、といったものだった。家庭なぞ顧みず、一人超然と生きていく雄々しさに惹かれてもいた。
 だが今度の怪我は、思いがけなく、そうした強さの裏に潜んでいた遠野の弱さを露呈したようである。それで家庭に戻ったわけではないが、逞しい遠野も家庭の絆《きずな》を引きずっているということを、露出したともいえる。
 むろん、修子はそんな遠野を批判する気はない。遠野に妻子があり、壊れかけているとはいえ、家庭があることは百も承知である。
 だがその種のことは、できうれば知りたくはなかった。見ないでいられれば、それにこしたことはないと思っているときに、ついうっかり垣間見てしまった。そんな衝撃が、いまだに修子のなかで尾を引いている。
 もちろん修子がそのことをいったら、遠野は一言の下に否定するに違いない。
「俺は怪我で入院しても妻を呼ばなかった。大阪に娘がきたのは、手術直後でやむをえなかったからで、実際、東京に戻ってからは誰もついていない」
 しかし一カ月近く入院していて、妻や娘が病室に現れないということがあるだろうか。下着や日用品など、家族の手で揃えてもらわねばならぬことはいろいろあるはずである。遠野が好むと好まざるとに拘らず、妻や娘の手を借りざるをえない。
 それにしても、この入院で、遠野と妻との関係はどのように変ったのだろうか。やはりいままでどおり冷戦状態なのか、それとも入院をきっかけにいくらか緩和されたのか。
 遊び步いていた夫が、病気を機に、妻の許《もと》に帰るという話をきいたことがあるが、遠野の場合はどうなのか。
 考えていると、また築地のマンションで遠野の妻に会ったときのことが思い出されてくる。
 あのとき修子は一方的にいいまくられ、返す言葉もなかったが、時間が経つとともに、遠野の妻の立場の辛さも考えられるようになってきた。もし自分が彼の妻の立場なら、もっと激しく罵ったかもしれない。彼女が泥棒猫といったのも無理はない。
 修子がそのように少し優しく考えられるようになったのは、それだけ罵られても、遠野をたしかに掴んでいるという自信からくる余裕があったからかもしれない。
 だが今度のように、遠野が入院した場合には、そう安閑としてはいられない。さすがに妻という立場は強く大きい。
 この場合、若さや美しさや、より多く愛されているという事実はなんの価値もない。そんな事実より、戸籍が入っているという形式のほうが圧倒的な価値をもってくる。
「まあ、いいさ」
 つぶやいてから、修子はこのごろ、よくその言葉を口にしているのに気がついた。
 大阪から新幹線で帰ってくるときも、東京の病院に見舞いに行こうとしてやめたときも、眞佐子の家に一人で行ったときも、同じ言葉をつぶやいていた。
「まあ、いいさ」とは、相手の立場を認めたようで、その実、自分にも妥協をしいている。
 年齢《とし》をとると自然にそうなるのかもしれないが、まだつぶやくには早すぎる。修子は自分にいいきかせると、テレビをつけソファの上に横向きになって足を投げ出した。
 もう一杯コーヒーを飲む気はないが、口が少し淋しい。
 修子は立上り、小さいグラスにリキュールを入れるとテレビを消して、ブラームスのピアノ曲に変えた。
 リキュールは眠れないときに飲むが、今夜は眠るためではない。
 ただアルコールで、軽く酔ってみたかっただけである。
 舐めるように飲みながらピアノ曲をきいているうちに気怠《けだる》くなり、陶然とした気分になる。
 独身でいて、幸せだと思うのはこういうときである。
 誰にも邪魔されず、一人でソファに凭《もた》れたまま、自由に想像の羽根を伸ばすことができる。この気楽さは、夫や子供がいる主婦には味わえぬ、優雅さかもしれない。
 二十代までは独身を恐れていたが、三十代に入ると女も開き直るのか。ともかく自分なりのライフスタイルが身につき、容易なことでは変える気になれない。
 そのままリキュールをほぼ飲み終えたとき、電話が鳴った。
 修子は上体を起こし、片手を伸ばしてソファの端にあった受話器をとった。
「もしもし、修子さんですか」
 なにやら窺うような調子だが、要介の声である。
「いま、一人ですか」
 考えてみると、遠野が怪我をして以来、要介には会っていない。
「この前はご免なさい、途中で失礼して……」
 遠野が怪我をした日、修子は食事の半ばで帰ってきた。
 身勝手な行動にさすがの要介も怒ったらしく、そのまま連絡がなかったが、修子も悪いと思いつつ、かけそびれていた。
「あの、怪我をした人、どうしましたか?」
「おかげさまで、大分|快《よ》くなったようです」
「それは、よかった」
 珍しく要介はおだやかな声で答えると、ぽつりといった。
「一度、逢えませんか?」
 あれほど無礼を働いたのに、また逢おうというのか。修子は要介の真意をはかりかねた。
「迷惑はかけません。ただ一度だけ逢っておきたいと思ったものですから」
「一度だけ?」
「実は僕、今度、結婚することになりました」
「結婚って、あなたが……」
「前から話はあったんですが、思いきってすることにしました。それで、もしお会いできたらと思って……」
「でも、結婚なさるのでしょう」
「ですからその前に一度……」
「………」
「あなたを好きだったものですから、最後の食事だけでも、一緒にできたらと思って……」
 修子はなにか、要介が冗談をいっているのかと思った。深夜にふと思いついて電話をよこす。日頃、身勝手で生意気な女を懲《こ》らしめるために、結婚するといって驚かせ、それで自分の存在を認めさせる。
 しかし、要介の話はそんな生易しいものではなさそうである。充分に考え、決心した末での電話のようである。
 それにしても、わからないのは男心である。
 いままで、自分一人を追い続けていると思ったのが、ある日突然、手のひらを返したように、別の女性との結婚に踏み切る。要介と最後に食事をともにしたのはつい一カ月前である。そのときは、結婚どころか、好きな人がいる素振りもなかった。
 しかも不思議なのは、そのことをわざわざ告げてくることである。
 もし本当に好きなら、そんなことはいうまでもない。
 これではまるで、思うとおりにならなかった女に、当てこすりをしているようなものである。表面は結婚報告をよそおって、その実、「どうだ、羨ましいだろう」と誇示しているともとれる。
 さらに不思議なことは、そんな相手と、もう一度、食事をしようと誘うことである。
 その理由として、「あなたを好きだったから……」といっている。
 しかし、これから結婚しようという男が、他の女性にそんなことをいってもいいのだろうか。もし結婚する相手を愛しているのなら、そんな理由で他の女性と逢うのは不謹慎ではないか。
 それでは、他に好きな人がいるが、やむなく新しい女性と結婚する、と告白しているようなものである。
 それで、修子をたてたつもりかもしれないが、そんなことをいわれても、嬉しくはない。
 すでに結婚すると決めた男が、実はあなたのほうが好きだ、などというのは男らしくない。
 修子は少し冷ややかな声で答えた。
「結婚なさるのなら、わたしと逢うことなぞ、ないんじゃありませんか」
「そんな意地悪は、いわないで下さい」
 とくに責める気はなかったが、要介には皮肉ときこえたようである。
「彼女とは見合いなんです。半年前に見合いして、親からも強くすすめられていたので……」
「わたしと逢って時間をつぶすより、その方と食事をなさったほうがいいわ」
「彼女とは逢っています。この一カ月、飽きるほど逢いました」
 要介の声が少し高くなる。
「彼女とは何度も逢ったので、ますますあなたと逢いたくなったのです。この気持、わかりますか?」
 どうやら要介は酔っているようである。初めは穏やかな口調だったが、気持が高ぶるとともに、舌がもつれてくる。しかし酔いにまかせて出鱈目をいっているわけでもなさそうである。
「今度、僕が結婚する気になったのは、あなたのせいです」
 突然、自分のせいだといわれて、修子はますますわからなくなる。
「あなたが冷たいから、結婚することにしたのです」
「でも、それはわたしとは……」
「もちろんあなたとは関係ありません。僕が決めたことです。でも原因はあなたにあるのです」
「………」
「僕はもう三十三です。いつまでも独りでいるわけにいきません」
 そのことなら自分も同じだと、修子はうなずいた。
「そろそろ結婚しなければならないけど、あなたは僕とする気はまったくない。あなたの気持は彼のほうを向いたまま、僕なんか相手にしていない」
 たしかに修子は、要介と結婚する気はなかった。
「いいんです。そのほうがかえって決心がついてよかったんです。だから僕はあなたを恨んでなんかいません。あなたが僕に関心がないのに、一方的に僕のほうから近付いていったのですから、責任は僕のほうにあるのです」
「………」
「でも、それなりに親しかったんですから、結婚する前に一度くらい、逢ってくれてもいいでしょう」
 かき口説く、というのは、女だけの言葉かと思ったが、男にもあるらしい。軽い酔いにくわえて、顔の見えぬ電話のせいか、今夜の要介はもの怯《お》じするところがない。
「おかしな奴と、思っているかもしれませんが、あなたのような人に逢ったのは初めてです」
 要介の言葉をきいているうちに、修子は雲の上にのせられているような気持になってくる。もともと要介はそうした、女性を心地よく酔わせる才能に長《た》けているのかもしれない。
「初めから、僕はこんなことになるような気がしていたのです。僕があなたに振られたあと、別の女性と結婚を決意して、最後にあなたと逢う。いま、そのとおりになっています」
 開き直ったように要介の舌はなめらかである。
「最後に、一度だけ逢って食事をしましょう」
「でも、逢ってどうなるのですか」
「別に目的なんかありません。ただ逢えればいいんです、それで僕も納得できます」
「なにを納得なさるのですか?」
「その、彼女と結婚することを……」
 どうやら、要介は一人でロマンチックな夢を描いているようである。
 愛している女性と別れて、あまり気のすすまぬ相手と結婚する。その最後の思い出のために、二人だけの晚餐をとる。男の夢に対して、修子の尋ね方は少し現実的すぎたのかもしれない。
 だが、要介の言葉の心地よさを感じながら、修子の気持は逆に醒めていく。
 すでに結婚を決意した男と、いまさら食事をしたところで仕方がない。それは単なる打算や狡《ずる》さでなく、生来、女が持っている|けじめ《ヽヽヽ》である。女はときに|けじめ《ヽヽヽ》を忘れることもあるが、多くはしっかりと身につけている。それは恋に溺れやすい女に与えられた有力な武器でもある。
「いま一度逢えたら、僕は一生、あなたのことを忘れません」
 修子は思わず笑いかけた。
 これから結婚するというのに、冷たくされた女を忘れないために、食事をしたいという。男はそれでロマンチックな気分に浸っているつもりかもしれないが、そんな男を夫にする女性は可哀想である。結婚しようといわれた以上、女は自分が一番愛されていると思うが、男は裏でもう一人、別の女をかき口説いている。
 それが男と女の違いといえばそれまでだが、かなり調子のいいロマンチシズムであることはたしかである。冷たいかもしれないが、修子はいま、そんな男の片棒を担ぐ気はない。
「お幸せになって下さい」
「逢って、くれないんですか?」
「これから奥さまになる人を、大事になさったほうがいいわ」
「もちろん大事にします。でもそれとこれは違うのです」
「逢って、誤解されるのはいやだわ」
「そんな、やましい気持なんかありません。ただ最後にゆっくりと食事でもしようと思っただけで……」
「わたしは、遠慮いたします」
「待って下さい、僕の話をきいて怒ったのですか?」
「どうしてわたしが怒るのですか?」
 修子は苛立ちを抑えてきき返した。
「あなたは、怒る人ではないと思っていました」
「あなたはとってもいいお友達だったし、お世話にもなって感謝しています。いろいろ我儘ばかりいって、悪かったとも思っています」
「じゃあ、逢うくらいはいいでしょう」
「結婚は、いつですか」
「一応、来年の春の予定です」
「それなら、結婚なさってからお逢いしましょう」
「僕はいま、独りのときに逢っておきたいのです。独りのほうが自由だし、まわりを気にすることもないし……」
「それは、いつでも同じよ」
「でも、結婚したら妻がいるし……」
「じゃあ、結婚なさってから、奥さまと一緒にお逢いしましょう」
 黙り込んだ要介に、修子は母親のように訓《さと》す。
「式の日取りが決ったら報《しら》せて下さい。祝電でも送らせていただきます」
 修子はそれだけいうと、「お元気で……」とつけくわえて、受話器をおいた。
 気がつくと、十一時を過ぎている。静まり返った部屋に流れるピアノ曲が、一層、夜の深さを思わせる。
 修子はその静けさのなかで、要介の電話を思い返す。
 せっかく誘ってくれたのに、食事くらい際《つ》き合うべきではなかったのか。
 どういうわけか、このごろ少し意固地なところがある。もう少し柔軟に振舞ったらと思うのに、気が付くと頑なに反撥している。それも初めから、「こうしよう」という意志があるわけではない。話しているうちにふと気持が定まり、一旦決ると、もはや梃子《てこ》でも動かない。
 この融通のきかなさは生来のものなのか、それとも最近になって目立ってきたのか。
 正直いって、今夜も修子の意固地なところが出たようである。
 初め、要介が結婚するときいたときは、驚きとともにはぐらかされたような淋しさを覚えたが、そのうち、なにか要介を信用できないような気がしてきた。
 そうなるとたちまち、不信感だけが先走って、他のことは考えられなくなってしまう。そして最後は彼の求めを冷たく突き放すことになる。
 だが落着いて考えてみると、要介は別に、無理なことを要求してきたわけではない。結婚前に一度だけ食事をしようという頼みを、受け入れることくらい簡単である。いままでの要介への仕打ちを考えると、それくらいのことを引受けるのは、当然の務めでもある。
 何故、優しく承諾できなかったのか。
 修子は改めて、自分の意固地さに呆《あき》れる。
 以前はこれほど頑なではなかったはずだが、どうしてこんなになったのか。
 修子の脳裏に自然に、遠野の顔が浮かんでくる。
 もしかすると、気強く頑なになったのは、遠野を愛しはじめてからかもしれない。
 振り返ってみると、遠野との恋は緊張の連続であった。妻子ある人と世間的には許されぬ、いわゆる不倫の恋をしている。その思いが、常に他人にうしろ指をさされまいという気構えになり、必要以上に突っ張ることになる。
 もっとも、その緊張感は悪いことばかりに働くとはかぎらない。
 修子が年齢より若く、美しい容姿を保っていられるのも、仕事をてきぱきとこなせるのも、緊張があってのことである。家庭という安住の場に入ったら、これほどの勁《つよ》さは保てなかったかもしれない。緊張こそ、女を美しくさせる原点である。
 だがときに、それも過ぎると害になる。
 このごろ、修子は自分が優しくない、と思うことがある。
 たとえば眞佐子の家へ招待されたとき、眞佐子夫婦の歓待を受けながら、素直に感謝する気になれなかった。また絵里の悩みにも、親身になって考えてやらず、そんなことは自分で解決すべきだと、途中から突き放してしまった。
 遠野の家族と会うわけはないと知りながら、見舞いに行かなかったことも、今夜、要介の願いをきき入れなかったことも、みな優しさが足りないからである。
 どうして優しくなれないのか、自分で苛立ちながら容易に改められない。
「やはり我を張って、生きすぎたのかもしれない……」
 だがなんといわれようとも、その頑なさから一つの|けじめ《ヽヽヽ》をつくり出してきたことだけはたしかである。
 自分が愛しているのは、二人で逢っているときの遠野だけで、それ以外の彼は、あずかり知らぬ他人である。修子がいつも自分にいいきかせ、大切に守り続けてきたのは、そうした意固地さから生れた|けじめ《ヽヽヽ》である。
 その善し悪しはともかく、そう思い、信じなければ、遠野への愛はもちろん、修子の存在自体も怪しくなる。現実に遠野への愛が揺れても、自らに課した|けじめ《ヽヽヽ》があるかぎり、揺れ動く幅は最小限でとどめることができる。
 いいかえると、心の揺れを防ぐかわりに、修子は意固地さという厄介なものを背負ってきたともいえそうである。
「少し疲れた?」
 残ったリキュールを飲みながら、修子は鏡に映る自分にきいてみる。
「大丈夫?」
 もう一度たしかめるが、深夜の部屋で答えるのは低いピアノの音だけである。
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