『これ、丑松や、猪子といふ御客様(さん)がお前(めへ)を尋ねて来たぞい。』斯(か)う言つて叔母は駈寄つた。
『猪子先生?』丑松の目は喜悦(よろこび)の色で輝いたのである。
『多時(はあるか)待つて居なすつたが、お前が帰らねえもんだで。』と叔母は丑松の様子を眺め乍ら、『今々其処へ出て行きなすつた――ちよツくら、田圃(たんぼ)の方へ行つて見て来るツて。』斯う言つて、気を変へて、『一体彼(あ)の御客様は奈何(どう)いふ方だえ。』
『私の先生でさ。』と丑松は答へた。
『あれ、左様(さう)かつちや。』と叔母は呆れて、『そんならそのやうに、御礼を言ふだつたに。俺はへえ、唯お前の知つてる人かと思つた――だつて、御友達のやうにばかり言ひなさるから。』
丑松は蓮太郎の跡を追つて、直に田圃の方へ出掛けようとしたが、丁度そこへ叔父も帰つて来たので、暫時(しばらく)上(あが)り端(はな)のところに腰掛けて休んだ。叔父は酷(ひど)く疲れたといふ風、家の内へ入るが早いか、『先づ、よかつた』を幾度と無く繰返した。何もかも今は無事に済んだ。葬式も。礼廻りも。斯ういふ思想(かんがへ)は奈何(どんな)に叔父の心を悦(よろこ)ばせたらう。『ああ――これまでに漕付(こぎつ)ける俺の心配といふものは。』斯う言つて、また思出したやうに安心の溜息を吐くのであつた。『全く、天の助けだぞよ。』と叔父は附加して言つた。
平和な姫子沢の家の光景(ありさま)と、世の変遷(うつりかはり)も知らずに居る叔父夫婦の昔気質(むかしかたぎ)とは、丑松の心に懐旧の情を催さした。裏庭で鳴き交す鶏の声は、午後の乾燥(はしや)いだ空気に響き渡つて、一層長閑(のどか)な思を与へる。働好な、壮健(たつしや)な、人の好い、しかも子の無い叔母は、いつまでも児童(こども)のやうに丑松を考へて居るので、其児童扱(こどもあつか)ひが又、些少(すくな)からず丑松を笑はせた。『御覧やれ、まあ、あの手付なぞの阿爺(おやぢ)さんに克く似てることは。』と言つて笑つた時は、思はず叔母も涙が出た。叔父も一緒に成つて笑つた。其時叔母が汲んで呉れた渋茶の味の甘かつたことは。款待振(もてなしぶり)の田舎饅頭(ゐなかまんぢゆう)、その黒砂糖の餡(あん)の食ひ慣れたのも、可懐(なつか)しい少年時代を思出させる。故郷に帰つたといふ心地(こゝろもち)は、何よりも深く斯ういふ場合に、丑松の胸を衝(つ)いて湧上(わきあが)るのであつた。
『どれ、それでは行つて見て来ます。』
と言つて家を出る。叔父も直ぐに随いて出た。何か用事ありげに呼留めたので、丑松は行かうとして振返つて見ると、霜葉(しもば)の落ちた柿の樹の下のところで、叔父は声を低くして
『他事(ほか)ぢやねえが、猪子で俺は思出した。以前(もと)師範校の先生で猪子といふ人が有つた。今日の御客様は彼人(あのひと)とは違ふか。』
『それですよ、その猪子先生ですよ。』と丑松は叔父の顔を眺め乍ら答へる。
『むゝ、左様(さう)かい、彼人かい。』と叔父は周囲(あたり)を眺め廻して、やがて一寸親指を出して見せて、『彼人は是(これ)だつて言ふぢやねえか――気を注(つ)けろよ。』
『はゝゝゝゝ。』と丑松は快活らしく笑つて、『叔父さん、其様(そん)なことは大丈夫です。』
斯う言つて急いだ。