そんな服装で通学しているわけだから、放課後に繁華街をうろついていても、補導される心配など殆どなかった。万一何か尋ねられても、大学生だ、と言い張れば、まず大丈夫なのだ。だから今日のような天気のいい金曜日には、まっすぐ家に帰る生徒のほうが圧倒的に少ないはずだった。
園村友彦も、ふつうならば仲間たちと連れだって、暇を持て余した女の子たちがいそうな繁華街に、あるいは新機種の入ったゲームセンターに直行するところだった。それをしなかったのは、例の万引き事件での出費があったからにほかならない。
桐原亮司が声をかけてきたのは、そんな事情があって、放課後になっても帰り支度をせず、教室の隅で『プレイボーイ』を読んでいる時だった。前に誰かが立つ気配があったので顔を上げると、彼が唇に意味不明の笑みを浮かべていた。
桐原は同じクラスの生徒だった。だが進級から二か月近くが経つというのに、殆ど言葉を交わしたことがなかった。友彦自身は人見知りするほうではなく、すでに大半のクラスメイトと親しくなっている。むしろ桐原のほうに、他人に対して壁を作っている気配があった。
「今日、空いてないか」というのが彼の第一声だった。
空いてるけど、と友彦は答えた。すると桐原は声をひそめていったのだ。なかなか悪くない話があるんやけど、一口乗ってみないか、と。
「女と話をするだけや。それだけで一万円。どうや。悪くないやろ」
「話をするだけ?」
「興味があるんなら、五時にここへ来てくれ」桐原は一枚のメモ用紙を差し出した。
そこに地図の描かれていた店が、先程のコーヒー専門店だった。
「相手の三人は、もう先に行って待ってるはずや」唇をあまり動かさないしゃべりかたで、桐原は友彦と村下にいった。
喫茶店を出た後、地下鉄に乗ったのだった。乗客は少なく、空席はいくらでもある。それでも桐原は座らず、ドアのそばに立った。周りの人間に話を聞かれたくないかららしかった。
「客って、どこの誰や」友彦は訊いた。
「名前は教えられへんな。まあ一応、ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃんってことにしておこう」昨年解散した三人組アイドルグループの愛称をいって、桐原は薄く笑った。
「ふざけるなよ。教えるっていうたやないか」
「名前まで教えるとはいうてない。それに勘違いするな。お互いの名前を教え合わんほうが、結局自分らのためになる。向こうにも、おまえらの名前は教えてない。念のためにいうておくけど、どんなに訊かれても、絶対に本当の名前や学校名を教えるな」
桐原の目には酷薄そうな光が宿っていた。友彦は一瞬たじろいだ。
「訊かれたら、どうするんだ」村下が訊いた。
「学校名は秘密ということでええやないか。名前のほうは偽名を使えば済むことや。まあしかし、名前を言い合うことはないと思う。あっちからも訊いてきたりはせえへん」
「一体どういう女たちや」友彦は質問の内容を変えた。
なぜか桐原の顔が少し和んだ。「主婦や」と彼は答えた。
「主婦?」
「ちょっと退屈気味の奥様方というところかな。趣味も仕事もなく、一日中誰とも口をきかへんという毎日の繰り返しで、いらいらしている。亭主も相手にしてくれへん。それで退屈しのぎに、若い男と話をしてみようっていうわけや」
桐原の話から、少し前に人気のあった日活ロマンポルノのことを友彦は思い出した。団地妻、というタイトルの一部が頭に浮かぶ。もっとも彼は見に行ったことがない。
「話をするだけで一万円か? なんか、気味が悪いな」友彦はいった。
「世の中には、変わった人間が大勢おる。気にするな。向こうがくれるというんやから、遠慮なくもろといたらええ」
「なんで俺や村下に声をかけた?」
「ルックスがええからや。決まってるやないか。自分でも、そう思うやろ?」
桐原に臆面《おくめん》もなくいわれ、友彦は返す言葉に困った。たしかに彼は自分のことを、芸能界に入っても通用する顔立ちだと思っていた。スタイルにも自信がある。
「だからいうたんや。誰にでもできるバイトやないとな」そういってから桐原は、自分の台詞に納得するように頷いた。
「ばばあじゃないっていうたよな」村下が、喫茶店での話を覚えていたらしく、確認するようにいった。
桐原は、にやりと笑った。
「ばばあやない。ただし、二十代の若妻ってこともないで。ま、三十から四十の間や」
「そんなおばさんと何の話をしたらええんや」友彦は心底心配になって訊いた。
「そんなことは、おまえは考えんでもええ。どうせ、毒にも薬にもならん話をするだけのことや。それより、地下鉄から降りたら髪をとかせよ。セットが乱れんように、ヘアスプレーもかけろ」
「そんなもの、持ってないよ」
友彦がいうと、桐原は自分のスポーツバッグを開いて見せた。中にはヘアブラシやヘアスプレーが入っていた。ドライヤーまで持っている。
「せっかくやから、とびきりの二枚目に仕上げていこうやないか。なあ」桐原は唇の右端を上げた。
なんば駅で地下鉄|御堂筋《みどうすじ》線から千日前《せんにちまえ》線に乗り換え、西長堀《にしながほり》駅で降りた。ここへは友彦も何度か来たことがある。中央図書館があるからだ。夏などは、自習室を使おうとする受験生で、入り口に列ができることもある。
その図書館の前を通り過ぎ、さらに数分歩いた。四階建ての小さなマンションの前で桐原は足を止めた。「ここや」
友彦は建物を見上げ、唾を飲み込んだ。かすかに胃が痛い。
「なんや、その顔は。表情が固いぞ」
桐原に苦笑され、友彦は思わず自分の頬を触った。
マンションにはエレベータがなかった。階段で三階まで上がると、桐原は三〇四号室のインターホンのボタンを押した。
はい、という女の声がスピーカーから聞こえた。
「俺です」と桐原はいった。
間もなく鍵の外れる音がして、ドアが開けられた。胸元が大きく開いた黒のシャツに、グレーと黄色のチェックのスカートを穿いた女が、ドアのノブを握っていた。小柄で顔も小さく、髪が短かった。
「こんにちは」と桐原は笑顔で挨拶した。
「こんにちは」女も応じた。目の周りに黒々と化粧を施している。そして耳たぶには、真っ赤な丸いイヤリングがぶらさがっていた。若作りしているのだろうが、やはり二十代には見えなかった。目の下に小皺があった。
女は友彦たちに視線を移した。その視線がコピー機の光の帯のように、二人の容姿を上から下までさっとスキャンするのを友彦は感じた。
「お友達ね」女が桐原にいった。
「そうです。二人とも、いい男でしょう」
彼の言葉に、女はふふっと笑った。そして、「どうぞ」といってドアをさらに大きく開けた。
友彦は桐原に続いて室内に入った。玄関から上がってすぐのところがダイニングキッチンになっている。一応テーブルと椅子が置いてあるが、作りつけの棚以外に食器棚らしきものはなく、調理器具も見当たらない。独身者用の小さな冷蔵庫と、その上に載っている電子レンジにも、生活感がなかった。この部屋は誰かが住むためのものではなく、別の目的のために借りられているらしいと友彦は推察した。
ショートヘアの女が、奥の襖を開けた。六畳の和室が二つあるが、今はその境界の襖が取り除かれて、長細い一室となっていた。部屋の一番端に、パイプ製の簡単なベッドが一つある。
中央にはテレビが置かれ、その前に別の女が二人座っていた。一人は茶色い髪をポニーテールにした、痩せた女だった。しかしニットのワンピースの胸は、格好よく膨らんでいる。もう一人はジーンズのミニスカートを穿き、上にもやはりジーンズのジャケットを羽繊っていた。丸顔で、肩あたりまで伸びた髪に緩やかなウェーブがかかっていた。三人の中では一番地味な顔立ちに見えたが、それはあとの二人の化粧が濃すぎるせいかもしれなかった。
「遅かったやないの」ポニーテールの女が桐原に向かっていった。だが怒っている口調ではなかった。
「すみません。いろいろと段取りがあったものですから」桐原は笑顔で謝った。
「どういう段取り? どんなおばさんが待っているか、説明してたんでしょ」
「いやあ、そんな」桐原は部屋に足を踏み入れた。畳の上で胡座をかくと、友彦たちにも、座れよ、というように目で合図した。
友彦は村下と共に座った。すると今度は桐原がすぐに立ち上がった。彼が座っていたところには、ショートヘアの女が腰を下ろした。それで友彦と村下は、三人の女たちに囲まれる形になった。
「ビールでいいですか」桐原が三人の女に尋ねた。
いいわよ、と三人は頷き合いながら答えた。
「おまえらも、ビールでええな」そういうと彼は友彦たちの返事を聞かずにキッチンへ行った。冷蔵庫からビール瓶を出してくる音がした。
「お酒、結構飲むの?」ポニーテールの女が友彦に訊いてきた。
「時々」と彼は答えた。
「強いの?」
「いやあ」彼は愛想笑いしながら首を振った。
女たちが目配せし合ったことに友彦は気づいた。その視線にどういう意味があるのかはわからなかった。だがどうやら彼女たちは、桐原が連れてきた二人の男子高校生の容姿に不満そうではなかったので、とりあえず安堵《あんど》した。
薄暗いと思ったら、ガラス戸の外に雨戸が入っていた。しかも照明は籐《とう》の笠がついた白熱灯一つだけだ。こんなふうに暗くするのは、女の歳をごまかすためかもしれないと友彦は思った。ポニーテールの女の肌は、彼の同級生の女子たちとは全く違っていた。そばで見ると、とてもよくわかる。
桐原がビール三本とグラス五つ、さらに柿の種やピーナツを盛った皿をトレイに載せて運んできた。彼はそれを皆の間に置くと、すぐにキッチンに戻った。そして次に彼が運んできたのは、大きなピザだった。
「二人は腹が減ってるやろ?」そういって友彦たちを見た。
女たちと友彦たちは酌をし合い、お互いのグラスを満たした。そしてわけもなく乾杯した。桐原はダイニングキッチンのほうで、自分のバッグの中を探っている。あいつはビールを飲まないのかなと友彦は思った。
「ガールフレンドは?」ポニーテールの女が、また友彦に訊いてきた。
「いえ、いません」
「本当? どうして?」
「どうしてって……どういうわけか、いないんです」
「かわいい子は、学校にいっぱいいるんでしょう?」
「どうかな」グラスを手にしたまま、友彦は首を傾げた。
「わかった。かなりの面食いなんだ」
「いやあ、そんなことないんやけどな」
「君なら、いくらでもガールフレンドができると思うわよ。じゃんじゃん声をかけたらいいのに」
「でも本当に、大した女の子がいないんです」
「そうなの? 残念ねえ」そういってポニーテールの女は、友彦の太股《ふともも》に右手をのせた。
女たちとの会話は、桐原がいったとおり、毒にも薬にもならないものばかりだった。内容のない言葉だけが、行ったり来たりしていた。こんなことだけで本当に金がもらえるのかなと、友彦は不思議になった。
よくしゃべるのはショートヘアの女とポニーテールの女だ。ジーンズルックの女は、ビールを飲みながら皆の話を聞いているという感じだった。笑い顔にも、どこか固いものがあった。
ショートヘアとポニーテールは、やたらにビールを勧めてきた。友彦は断らずに飲み続けた。酒や煙草を勧められたらできるだけ断るなと、ここへ来る前に桐原からいわれていた。
「話が盛り上がってるみたいですけど、ここでちょっとショータイムにしましょか」顔を合わせてから三十分ほどが経った頃、桐原がこんなふうに皆に声をかけてきた。友彦は、早くもほろ酔い気分になっていた。
「あっ、新作?」ショートヘアの女が、彼のほうを見て訊いた。目が輝いている。
「まあそうです。気に入ってもらえるかどうかはわかりませんけど」
先程から桐原がダイニングテーブルの上で小型の映写機を組み立てていることには、友彦も気づいていた。何をする気なのか尋ねようと思っていたところだった。
「何の映画?」友彦は桐原に訊いた。
「それはまあ、見てのお楽しみ」桐原はにやりと笑い、映写機のスイッチを入れた。するとそこから発せられた強い光が、五人の前の壁に大きな四角形を作った。白い壁を、そのままスクリーンにしようということらしい。桐原は友彦にいった。「すまんけど、明かりを消してくれ」
友彦は身体を伸ばし、白熱灯のスイッチを切った。同時に、桐原はフィルムを回し始めた。
それはカラーの8ミリ映画だった。音は出てこない。だがどういう種類の映画であるかは、始まって間もなく友彦にもわかった。いきなり裸の男女が出てきたからだ。しかもふつうの映画であれば、絶対に映してはいけないはずの部分までもが、完全に露出されていた。友彦は自分の心臓の鼓動が速くなるのを自覚した。それはビールによる酔いのせいだけではなかった。彼は写真でこういうものを見たことはあったが、動く映像を目にするのは初めてだった。
「わあ、すごい」
「へええ、ああいうやり方もあるんやねえ」
女たちは、照れ隠しからか、はしゃいだ声でコメントをした。しかも彼女たちの台詞は、お互いに向けられたものではなく、友彦や村下に対して発せられていた。ポニーテールの女は友彦の耳元で、「ああいうこと、したことある?」と囁いた。いいえ、と答える時、彼は無様にも声を震わせてしまった。
最初の映画は十分ほどで終わった。桐原は素早く映写機のリールを取り替えた。その間にショートヘアの女が、「なんだか暑くなってきた」といって、シャツを脱ぎ始めた。シャツの下はブラジャーだけだった。映写機の光で、白い肌が浮かんだ。
その直後だった。ジーンズルックの女が突然立ち上がった。
「あの、あたし……」そういったきり口を閉ざした。言葉に迷っているようだった。
すると映写機をセットしていた桐原が訊いた。「お帰りですか」
女は無言で頷いた。
「そうですか。それは残念」
皆が見つめる中、ジーンズルックの女は玄関に向かった。誰とも目を合わせないようにしているようだった。
彼女が出ていった後、桐原は改めて戸締まりをして戻ってきた。
ショートヘアの女がくすくす笑った。「彼女には刺激が強すぎたかな」
「三対二で、自分だけあぶれたからやないの。リョウがちゃんと相手をしてあげへんから」ポニーテールの女がいった。声に優越感のようなものが混じっていた。
「様子を見てたんですよ。けど、あの人は無理みたいでした」
「せっかく誘ってあげたのにな」とショートヘアの女。
「まあいいじゃない。それより、続きを始めてよ」
「ええ、今すぐに」桐原は映写機のスイッチを入れた。再び壁に映像が現れた。
ポニーテールの女がニットのワンピースを脱いだのは、二本目の映画の途中だった。脱ぐなり女は友彦のほうに身体をすりよせてきた。そして小声で、「触ってもいいのよ」と囁いてきた。
友彦は勃起《ぼっき》していた。だがそれが裸同然の女に迫られたからなのか、過激な映像を見ているせいなのか、自分でもよくわからなかった。ただ、このバイトの真の内容だけは、さすがにこの時点では理解していた。
彼は不安だった。といっても、これから始まることから逃げたくなったわけではない。心配だったのは、うまくこの仕事をこなせるだろうかということだ。
彼はまだ童貞だった。