東西電装株式会社の関係者と名乗る男が持ってきた話も奇妙なものだった。ある会社の、ある製品について調べてほしいというのだ。ある会社とは、メモリックスという名のソフトウェア開発の会社だった。そしてある製品とは、そこが売り出し中の金属加工エキスパートシステムというソフトのことだった。
つまりそのソフトの開発経緯や、中心になって開発した人間の略歴、交際範囲などを調査するというのが依頼内容だった。
調査の目的について、その依頼人は詳しいことを話さなかった。だがいくつかの言葉の断片から、漠然とではあるが窺《うかが》い知ることはできた。どうやら東西電装では、そのソフトを自社開発ソフトの内容を盗用したものと睨《にら》んでいるらしい。だが製品を比べただけでは立証は困難と判断し、誰が盗んだのかを明らかにしようと思ったわけだ。コンピュータソフトを盗むには東西電装内に共犯者が必要なので、メモリックスの開発担当者の周辺を探れば、どこかに東西電装関係者との接点が見つかるのではないかというのが、依頼人たちの考えのようだった。
東京総合リサーチ目黒事務所には約二十人の調査員がいた。そのうちの半数が、この仕事にあてられた。今枝もその一人だった。
調査を始めて二週間ほどで、メモリックスという会社の実態はほぼ明らかになった。設立は一九八四年で、元プログラマーの安西《あんざい》徹《とおる》という男が社長だ。アルバイトを含め、十二名のシステムエンジニアを抱えている。主にメーカーから依頼を受け、様々なシステム開発を行うことで実績を伸ばしていた。
だが問題の金属加工エキスパートシステムには、たしかに不可解な点が多かった。その最大のものは、金属加工に関する膨大なノウハウやデータを、どこから入手したのかということだった。一応ソフト開発にあたり、ある中堅の金属材料メーカーが技術協力をしたことにはなっている。しかし今枝たちが詳しく調査してみると、先にすでに開発されたソフトがあり、金属材料メーカーでは確認作業をしただけのようなのだ。
一番考えられるのは、これまでの顧客から得たデータを流用したということだった。メモリックスはいろいろな会社と協同で仕事をする関係から、相手会社の技術情報に接する機会がある。当然それらの中には金属加工に関する情報も含まれていただろう。
しかしやはりこれは考えにくかった。情報管理については、顧客との間で細かい契約がいくつも交わされており、メモリックスの人間が無断で情報を社外に持ち出したり、それを外部に漏らしたことが発覚した場合には、メモリックスに厳重なペナルティが科されることになっているのだ。
それだけに東西電装のソフトが盗まれたというのは、ありそうな話に思われた。メモリックスは東西電装とは全く接点がない。しかも東西電装のソフトは社外には出ていない。仮にソフトの内容に酷似したところがあったとしても、メモリックスとしては偶然の一致を主張できるわけだ。
調査を続けるうち、やがて一人の男が浮かびあがってきた。メモリックスの主任開発員という肩書きを持つ男で、名前を秋吉雄一といった。
この男がメモリックスに入ったのは一九八六年だ。その直後から、突然メモリックスで金属加工エキスパートシステムの研究が始まっている。さらに翌年には、ほぼ開発が終わっている。常識ではとても考えられないスピードだ。ふつうならば短くても三年はかかる研究だった。
秋吉雄一は、金属加工エキスパートシステムのベースになる情報を手土産にメモリックスに入ったのではないか――それが今枝たちの立てた推論だった。
ところがこの秋吉については、殆ど何もわからなかった。
住んでいたのは豊島区内の賃貸マンションだが、住民登録をしていなかった。そこで今枝たちはマンションの管理会社にあたり、秋吉の入居前の住所を調べてみた。それは何と名古屋になっていた。
早速調査員がその場所に行ってみた。だがそこに建っていたのは、煙突のように背の高いビルだけだった。調査員は近所の人間に尋ねてまわった。しかしそのビルが建つ前に秋吉という人間が住んでいたという話を聞くことはできなかった。区役所で調べた結果も同じだった。秋吉雄一は住民登録などしていなかったのだ。また秋吉が部屋を借りる際、彼の保証人になった人物も名古屋に住んでいるはずだったが、その住所の場所には誰もいなかった。
どうやら部屋を借りる際に秋吉が管理会社に提出した書類は、偽造されたものである可能性が高かった。つまり秋吉雄一という名前も、本名ではないかもしれないのだ。
秋吉とは一体何者なのか。それを明らかにするため、最も基本的な調査が行われた。すなわち行動を見張り続けたわけだ。
豊島区のマンションには、秋吉の留守中に盗聴器が仕掛けられた。部屋での会話を聞くものと、電話を盗聴するものの二つだ。また彼のところに届く郵便物は、書留や速達を除き、殆どすべて開封して中を調べた。調べた後は、封を閉じ直して郵便受けに戻しておく。もちろんこれらの手段で得られた情報は、たとえば裁判などでは使えない。だがとにかく彼の正体を暴くことが先決だった。
秋吉は会社と自宅とを往復するだけの生活をしているように見えた。部屋に訪ねてくる者もなく、電話の内容も特に意味のありそうなものはなかった。というより、殆ど電話はかかってこなかった。
「あいつは一体何が楽しくて生きているんだろうな。まるで孤独じゃないか」今枝とコンビを組んでいた男が、モニターに映る部屋の窓を見ながらいったことがある。クリーニング店のバンに見せかけた車の中でのことだ。カメラは車の屋根に備え付けてあった。
「何かから逃げているのかもしれないぜ」と今枝はいった。「だから正体を隠している」
「人を殺したとか?」相棒がにやりと笑った。
「かもしれない」今枝も笑って応じた。
秋吉に、連絡を取るべき相手が最低一人は存在することがわかったのは、それから少し経ってからだった。彼が部屋にいる時、けたたましく電子音が鳴りだしたのだ。ポケットベルの音だった。今枝は緊張し、ヘッドホンに神経を集中させた。秋吉がどこかに電話すると思ったからだ。
ところが秋吉は部屋を出てしまった。そしてマンションからも出て、歩きだした。今枝たちは急いで尾行した。
秋吉は酒屋の表にある公衆電話の前で立ち止まり、どこかに電話をかけた。無表情のまま何かを話している。話している間も、周囲に視線を配ることを忘れない。だから今枝たちも近づけなかった。
こんなことが何度か続いた。ポケットベルが鳴った後には、必ず秋吉は電話をかけに外に出る。決して部屋の電話を使わないことから、盗聴器に気づいているのだろうかとも思ったが、それならば早々に取り外してしまうはずだった。おそらく秋吉は、重大な電話をかける時には外の電話を使う習慣を身につけていたのだろう。その公衆電話にしても、一箇所に決めず、その時によって違う場所の電話を使う徹底ぶりだった。
ポケットベルを鳴らしてくるのはどこの誰か。それが当時の最大の謎《なぞ》だった。
しかしその謎が解けぬまま、事態は別の方向に動きだした。秋吉が不可解な行動をとり始めたのだ。
まず、ある木曜日に秋吉は、会社が終わった後で新宿に出た。珍しいというより、今枝たちが調査を開始して以来初めてのことだった。秋吉は新宿駅西口のそばの喫茶店に入った。
そこで彼は、ある男と会った。年齢は四十代半ば、痩せて小柄で、能面のように表情の読みにくい顔をしていた。今枝はその男を一目見て、胸騒ぎのようなものを感じた。
秋吉は男から大型封筒を受け取っていた。彼は中身を確かめると、交換するように小さな封筒を渡した。男が封筒から出したのは現金だった。それを手早く数え、上着の内ポケットに入れると、一枚の紙を秋吉に差し出した。
領収書だな、と今枝は思った。
秋吉と男はその後数分言葉を交わし、同時に立ち上がった。今枝は相棒と二手に分かれ、二人を尾行した。今枝がつけたのは秋吉のほうだった。秋吉はその後真っ直ぐに自宅に帰った。
相棒が尾行していた男は、都内に事務所を構える探偵事務所の所長だった。所長といっても、他には妻という名の助手がいるだけだ。
やはり、と今枝は合点した。あの男からは、同業者特有の臭いのようなものが発せられていたのだ。
秋吉が探偵を使って何を調べたのかを知りたかった。東京総合リサーチと何らかの繋《つな》がりのある調査会社ならば、手段がないわけではない。だが秋吉が雇った探偵は、全くのフリーで商売をしている男だった。下手に接触して、自分たちの調査内容を探られでもしたら、取り返しのつかないことになる。
とりあえず秋吉をマークし続けようということになった。
その週の土曜日、秋吉が再び動きを見せた。
例によって今枝たちがマンションを見張っていると、ブルゾンにジーンズというラフな格好をした秋吉が出てきた。今枝は相棒と共に彼の後をつけた。この時今枝には、ある予感があった。単なる外出とは思えない不穏な気配が秋吉の背中には漂っていた。
秋吉は電車を乗り継ぎ、下北沢の駅に降り立った。鋭い視線を常に周囲に向けてはいたが、尾行に気づいている様子はなかった。
彼は小さなメモのようなものを手に持ち、時折住所表示を見ながら、駅の周辺を歩いていた。どこかの家を探しているらしいと今枝は見当をつけた。
やがて彼の足が止まった。線路脇にある三階建ての小さな建物の前だ。独身者用のワンルームマンションといった感じだった。
秋吉はその建物には足を踏み入れず、向かい側の喫茶店に入っていった。今枝は少し迷ってから、一緒にいた相棒を喫茶店に入らせた。もしかすると秋吉はここで誰かと待ち合わせをしているのかもしれないと思ったからだ。自分は近くの書店で待つことにした。
一時間後、相棒は一人で店から出てきた。
「待ち合わせじゃねえな」と彼はいった。「あれは張り込んでるんだ。あそこに住んでる誰かを見張ってるんだろう」顎《あご》で向かいのマンションを示した。
今枝は探偵のことを思い出していた。秋吉はこのマンションに住んでいる人間のことを調べさせていたのではないか。
「すると俺たちも、ここでじっとしてなきゃならないわけか」今枝はいった。
「そういうことだ」
今枝はため息をつき、公衆電話を探した。事務所に連絡して、車を持ってきてもらうためだった。
だがその車が到着しないうちに秋吉が店から出てきた。今枝がマンションのほうを見ると、一人の若い女が駅のほうに歩きだしたところだった。手にゴルフのクラブケースを持っていた。秋吉はその女から十数メートル離れてついていく。その秋吉を、今枝たちが尾行した。
女の行き先はイーグルゴルフ練習場だった。秋吉も中に入っていったので、今度は今枝が後を追うことにした。
見張っていると、女はゴルフ教室に参加していた。秋吉はそれを確認するように見送ると、ゴルフ教室に関するパンフレットを一枚取り、出ていった。そしてその日はもうイーグルゴルフ練習場には戻ってこなかった。
女について調査してみた。身元はすぐに判明した。人材派遣会社に籍を置く、三沢千都留という人物だった。今枝たちはその会社に問い合わせ、彼女がかつて東西電装に派遣されていたことを突き止めた。つまり、とうとう秋吉と東西電装とが繋がったわけだ。
今枝たちは勢い込んで、引き続き秋吉をマークすることにした。いずれ三沢千都留と接触する時が来ると信じていた。
ところが事態は意外な方向に傾いていった。
しばらく目立った動きを見せなかった秋吉が、ある土曜日に再びイーグルゴルフ練習場に足を向けた。ちょうど三沢千都留が参加しているゴルフ教室の始まる時間帯だった。
だが秋吉は三沢に近づこうとはしない。相変わらず、陰から彼女を見張っていた。
やがて別の男が三沢千都留の横に座り、親しげに話し始めた。二人はまるで恋人同士のように見えた。
そして秋吉は、それを見届けることが目的だったかのようにゴルフ練習場を後にした。
結果的に、秋吉が三沢千都留に接近したのはこの時が最後になった。その後彼は一度もイーグルゴルフ練習場には足を向けなかったのだ。
今枝たちは、三沢千都留と一緒にいた男のことを調べた。男は高宮誠という名前で、東西電装の社員だった。所属は特許ライセンス部だ。
当然、何かあると思った。二人の関係や、秋吉との繋がりについて調査を行った。
だがソフト盗用に関連しそうな手がかりは、何ひとつ得られなかった。判明したのは、妻のある高宮誠が三沢千都留を相手に不倫をしているらしい、ということだけだった。
そのうちに依頼人のほうから調査の打ち切りを要請してきた。調査費がかさむばかりで有益な情報が少しも得られないのでは無理もない話だった。東京総合リサーチでは、分厚い調査報告書を依頼人に渡したが、それがどの程度活用されたかは不明だ。たぶん即座にシュレッダーにかけられたのだろうと今枝は推測している。