駅のそばに移れば有利なのはわかっている。依頼人は大抵、あれこれ迷いながら探偵事務所に向かっているものだ。バスに乗っている数分間に、やはり探偵なんかを雇うのはやめようと心変わりすることも、大いにありうることだった。
しかし地価高騰に伴い、家賃も異常に上昇していた。今枝は狭い事務所一つを借りるために、毎月目の飛び出るほどの大金を払う気にはとてもなれなかった。賃貸料は結局調査費の値上げに繋がる。なるべくリーズナブルな値段で依頼人の期待に応えたいというのが、この仕事を始めた時からの彼の考えだった。
その事務所に篠塚一成から電話がかかってきたのは、七月を間近にした水曜日のことだった。窓の外では、糸のように細い雨が降り続いていた。だから今日も客は来ないかもしれないなと諦めていた時でもあった。
電話の主が篠塚とわかった瞬間、仕事の話だなと今枝は直感した。依頼人の声には、独特の響きがあるのだ。
案の定彼は、折り入って話があるのでこれから行ってもいいですか、と訊いてきた。待っています、と今枝は答えた。
電話を切ってから、今枝は首を傾げた。篠塚一成は独身のはずだ。ということは単なる浮気調査ではないかもしれない。また彼は、恋人の浮気を察知したとしても、その確認を他人に任せるような男には見えなかった。
高宮誠とゴルフ練習場で偶然出会ったあの日、高宮の妻となった千都留の後ろに立っていたのが篠塚一成だった。あの日彼等は三人で食事をするつもりで、ゴルフ練習場で待ち合わせたらしい。さすがに今枝はその食事にまでは付き合わなかったが、練習場のロビーで紙コップに入ったインスタントコーヒーを飲みながら、三人と少し会話を楽しんだ。篠塚の名刺も、その時に貰《もら》った。
その後、今枝は彼とゴルフ練習場で二度ほど会った。篠塚もゴルフの腕前はなかなかのものだった。
今枝の仕事についても、少し話をしたことがある。篠塚はあまり関心があるように見えなかったが、あの時すでに考えるところがあったのかもしれない。
今枝はマルボロの箱から煙草を一本抜き取り、使い捨てライターで火をつけた。乱雑に書類を置いた机に足を載せ、椅子に大きくもたれて一服した。灰白色の煙が薄暗い天井で漂った。
篠塚一成はただのサラリーマンではない。伯父が社長をしている篠塚薬品の幹部候補生だ。となると企業に関係した調査依頼である可能性もなくはない。
そんなふうに想像した途端、今枝は全身の血の流れが速まるのを感じた。久しぶりに味わう感覚だった。
今枝が東京総合リサーチを辞めて独立したのは二年前だった。安い給料で人にこき使われるのが嫌になったし、一人でやっていけるという自信もついたからだ。各方面へのコネクションも、かなり構築できた。
実際経営状態は悪くなかった。男一人が食べていける程度には、安定して仕事の依頼が来る。少しは貯金もしているし、月に一度ゴルフを楽しむ程度の余裕はある。
ただ満足度は低かった。現在の彼の仕事の大半は浮気調査だ。東京総合リサーチにいた頃にはしょっちゅうあった企業絡みの調査依頼など、皆無といえた。来る日も来る日も、男と女の愛憎の臭いを嗅いでまわっている。それが嫌なのではない。ただ以前のようには緊張していない自分に、今枝は気づいていた。
かつて彼には警察官になろうとした時期があった。試験に合格し、警察学校にまで入ったのだ。しかしそこでの無意味としか思えない規律の厳しさに嫌気がさし、途中で退学した。二十代前半の話だ。
その後アルバイトをいくつか経験し、ある日新聞で東京総合リサーチの社員募集広告を見つけた。警察がだめなら探偵になるか、そんな半分冗談のような気持ちで面接を受けに行った。採用にはなったが、最初はアルバイト待遇だった。それが半年続いて正社員になった。
調査員をしてみて、この仕事が自分に向いていることを発見した。映画やドラマに出てくる私立探偵のような派手さは全くない。孤独で地味な作業の繰り返しだ。警察のような権力を持っていないから、どんな世界にも正面玄関から入っていくわけにはいかない。加えて依頼人の秘密を守る義務がある。調査した形跡を可能なかぎり残さず、それでいて調査に漏れがあってはならない。しかし苦労の末に目的の情報を手に入れた時の喜びと達成感は、ほかでは味わえなかった。
あの興奮を取り戻せるのではないか――篠塚の電話を受け、今枝はそんなふうに期待し始めていた。良い予感があるのだった。
だが彼は首を振り、煙草を灰皿の中で潰した。やめておけ、下手に期待してもがっかりするだけだ。どうせまた女の素行調査さ。そうに決まっている――。
コーヒーを淹《い》れようと彼は立ち上がった。壁の時計は二時を指していた。