「これはどうも」といって今枝はコーヒーカップに手を伸ばした。こういう場所にいると、コーヒーの香りまでもが重厚に感じられた。「この店は三人でやっておられるんですか」
「ええ、大抵は。唐沢は、もう一つの店に行っていることも多いですけど」エプロンの娘はトレイを持ったまま答えた。
「もう一つというのは……」
「代官山です」
「ふうん。しかしすごいな。あの若さで二軒も店を持っているなんて」
「今度、自由が丘に子供服の専門店を出す予定なんです」
「三軒目を? そいつは参った。唐沢さんは金のなる木でも持っているのかな」
「社長はすごくよく働きますから。いつ寝ているのかと思うぐらい」小声でそういってから彼女は奥のほうをちらりと見た。それから、「どうぞごゆっくり」といって下がっていった。
今枝はコーヒーをブラックで飲んだ。下手な喫茶店よりも旨いコーヒーだった。
もしかすると唐沢雪穂という女は、見かけ以上に金に執着するタイプなのかもしれないなと今枝は思った。そうでないタイプの人間は、まず商売では成功しないからだ。そして雪穂のそういう特性は、間違いなくあの吉田ハイツに住んでいた頃に形成されたのだろうと彼は踏んだ。
実母をなくした雪穂は、近くに住んでいた唐沢礼子に引き取られた。彼女は雪穂の父親の従姉《いとこ》だった。
今回今枝は、その唐沢家のほうも見てきた。小さな庭のある上品な日本家屋だった。茶道裏千家と書かれた札が、門に出ていた。
その家で雪穂は、義母から茶道、華道、その他女性として身につけておいて損のない技術を、いくつか教わったらしい。現在の雪穂が全身から醸《かも》し出す女らしさの源は、その時期に萌芽したのだろう。
唐沢礼子がまだ住んでいることもあり、その周辺の聞き込みはあまり思うようにはできなかった。しかし唐沢家に引き取られてからの雪穂の生活は、さほど特殊なものではなかったようだ。地元の住民たちにしても、「奇麗で、おとなしそうな女の子がいた」という程度の記憶を持っているだけだった。
「おじさん」
声をかけられ、顔を上げた。菅原絵里が黒いベルベットのワンピースを着て立っていた。裾《すそ》がどきりとするほど短く、形のいい足が露出している。
「それ、会社に着ていけるかい?」
「やっぱり無理かな」
「こちらなんかはいかがでしょうか」白いスーツの女が、別の洋服を見せた。地がブルーで、襟だけが白いジャケットだった。「スカートでもキュロットでも合わせられるようになっているんですけど」
「うーん」と絵里は唸《うな》った。「よく似ているのを持っているような気がするのよね」
「じゃあだめだな」と今枝はいった。そして時計を見た。そろそろ引き上げ時だ。
「ねえおじさん、出直しちゃだめ? あたし、今自分がどんな服を持っているのか、よくわかんなくなっちゃったの」打ち合わせ通りに絵里がいった。
「仕方がないな。じゃあそうしようか」
「ごめんなさいね、いっぱい見せてもらっちゃったのに」絵里が白いスーツの女に謝った。いいえ、かまわないんですよ、と女は愛想笑いをしながら答えている。
今枝は立ち上がり、絵里が自分の服に着替えるのを待った。すると、奥からまた唐沢雪穂が現れた。
「姪御さんのお気に召すものがなかったようですね」
「どうもすみません。気まぐれで困ります」
「いいえ、お気になさらないでください。自分に合ったものを探すというのは、とても難しいことですから」
「そのようですね」
「洋服や装身具というのは、その人の内側にあるものを隠すものではなく、むしろ引き立たせるためのものだと考えています。ですからお客様の服を選ぶ時でも、その人の内面も理解しないといけないと思っています」
「なるほど」
「たとえば、本当に育ちのいい人が着ると、どういうものでも気品に溢れて見えるものなんです。もちろん――」雪穂は真っ直ぐに今枝の目を見て続けた。「その逆もございます」
今枝は小さく頷き、顔をそむけた。
俺のことをいっているのか、と考えた。スーツが似合っていなかったのか。それとも絵里のほうが不自然だったのか。
その絵里が着替えを終えて戻ってきた。
「お待たせ」
「案内状をお送りいたしますから、こちらに御連絡先を書いていただけますか」雪穂が一枚の紙を絵里に渡した。絵里は不安げな目で今枝を見た。
「君のところがいいんじゃないか」
彼がいうと、絵里は頷き、ボールペンを受け取って書き込みはじめた。
「本当に素敵な時計ですね」雪穂がいった。また今枝の左手首を見ていた。
「この時計が気に入られたようですね」
「ええ。カルティエの限定品です。その時計を持っている人は、ほかには一人しか知りません」
「へえ……」今枝は左手を後ろに隠した。
「またのご来店を、心よりお待ちしております」雪穂はいった。
是非近いうちに、と今枝は答えた。
店を出た後、今枝は車で絵里をアパートまで送った。バイト代は一万円だ。
「高級品を身につけて一万円だ。悪くないバイトだろ」
「蛇の生殺しだよ。この次は何か買ってもらうからね」
「この次があればな」そういって今枝はアクセルを踏んだ。この次はたぶんないだろうと彼は考えていた。調査のためではなく、唐沢雪穂という人物に直に会っておきたくて、今日わざわざ行ったにすぎない。
それに――。
あの店に近づくのは危険だと思った。唐沢雪穂は思った以上に油断のならない相手かもしれない。
自分の部屋に戻ってから、篠塚に電話をした。
「どうでした」電話をかけてきたのが今枝だと知ると、即座に彼はこう訊いてきた。
「あなたのおっしゃってた意味が少しわかりましたよ」
「どういうことですか」
「たしかに得体の知れない女性です」
「そうでしょう」
「でもすごい美人だ。従兄さんが惚れたのもわかる」
「……まあね」
「とにかく調査を続けてみます」
「よろしくお願いします」
「ところで、一つ確認しておきたいんですがね、お借りした腕時計のことです」
「何ですが」
「この時計、本当に彼女の前では一度もはめてませんか。はめてないにしても、この時計のことを彼女に話したことはあるんじゃありませんか」
「いやあ、ないはずだけどなあ……何かいわれましたか」
「いわれたというほどではないんですが」今枝は店でのことをかいつまんで話した。篠塚は唸り声をあげた。
「彼女が知っているはずはないんだけどなあ」そういってから篠塚は、「ただ……」と小声で続けた。
「何ですか」
「厳密なことをいえば、彼女のいる場所ではめていたことはあります。でも彼女からは絶対に見えなかったと思うし、仮に見たとしても記憶に残るような局面ではなかったと思うんですが」
「どこでの話ですか」
「披露宴会場です」
「披露宴? どなたの?」
「彼等のです。高宮と雪穂さんの結婚披露宴に、その時計をはめていきました」
「あっ……」
「でも僕は高宮のそばにはいきましたけれど、彼女には殆ど近づかなかった。一番接近したのは、キャンドルサービスの時じゃなかったかな。だから彼女が僕の時計を覚えているなんてことは、ちょっと考えられないんです」
「キャンドルサービス……じゃあやっぱり気のせいなのかな」
「だと思いますよ」
受話器を持ったまま今枝は頷いた。篠塚は頭の悪い男ではない。彼がそういうからには、記憶違いということはないだろう。
「面倒なことをお願いして申し訳ありません」篠塚が詫びてきた。
「いえ、これも仕事ですから」それに、と今枝は続けた。「個人的にも、あの女性に興味が湧いてきました。といっても誤解しないでください。惚れたという意味ではありません。あの女性には何かがある、そう感じるんです」
「探偵の勘、ですか」
「まあ、そういうところです」
電話の向こうで篠塚が沈黙した。その勘の根拠について考えているのかもしれない。
やがて彼はいった。「では、ひとつよろしく」
「ええ、がんばってみます」そういって今枝は電話を切った。