今枝は午前九時過ぎに寝床から這《は》い出すと、Tシャツにジーンズという出で立ちで部屋を出た。骨が一本曲がっている傘をさし、マンションの向かい側にある『ボレロ』という名の喫茶店に入った。木製ドアの上には小さな鐘がついていて、開閉するとからんからんと音がした。ここでスポーツ新聞を読みながらモーニングセットを食べるのが毎日の習慣になっている。
『ボレロ』はテーブル席が四つとカウンターがあるだけの小さな店だ。テーブルは二つが塞がり、カウンターには客が一人座っていた。頭の禿《は》げたマスターが、カウンターの中から今枝に向かって会釈した。
今枝はちょっと迷ったが、結局一番奥のテーブル席についた。この時間帯、これから客が押し寄せてくるとは思えなかった。どうしてもテーブル席が足りなくなれば、その時カウンターに移ればいい。
今枝は特にオーダーをしない。黙っていれば数分後には、太いソーセージを挟んだホットドッグとコーヒーをマスターが運んできてくれるはずだった。ホットドッグには炒めたキャベツも挟んであるだろう。
すぐそばのマガジンラックには、新聞が何紙か畳んで入れてある。カウンター客がスポーツ新聞を読んでいるから、残っているのは一般紙と経済紙だけだ。今枝は諦めて朝日新聞を抜き取った。読売新聞もあったが、それは彼が購読している。
椅子に座り直し、新聞を開こうとした時、からんからんと音がした。反射的にドアのほうを見る。男性客が一人入ってきたところだった。
男の年齢は六十歳近くに見えた。五分刈りにした頭には白髪が混じっている。体格はいい。白い開襟シャツを着た胸は厚く、半袖から出た腕も太かった。背は百七十センチ以上あるだろう。おまけに昔の侍のように姿勢がよかった。
しかし最も今枝の気をひいたのはそうした外見ではなく、男が店に足を踏み入れるなり、まず今枝のほうに鋭い視線を向けてきたことだった。まるでそこに彼がいることを、店に入る前から知っていたようだった。
だがじつはそれも一瞬のことだ。男はすぐに視線を無関係な方向に移動させた。同時に男自身も動いていた。男はカウンター席に座った。
「コーヒーをください」男がマスターにいった。
その一言を聞いて、新聞に目を戻しかけていた今枝は、また顔を上げた。男のアクセントが関西なまりのものだったからだ。意表をつかれたような感じがした。
その時男がまた今枝のほうを見た。一瞬二人の視線が合致した。
男の目は他人を威嚇《いかく》するようなものではなかったし、何らかの邪念を含んでいるものでもなさそうだった。しかし人間の憎悪や歪みを知り尽くした目だった。真の冷徹さともいうべき鈍い光が宿っていた。今枝は背中にぞくりとした冷たいものを感じた。
だが二人が目を合わせていたのは、本当に短い時間だった。一秒にも満たなかったかもしれない。どちらからともなく目を外した数秒後には、今枝は新聞の社会面の見出しを読んでいた。大型トレーラーが高速道路で事故を起こしたという記事だった。しかし今枝は男のことを完全に意識から追い出せたわけではなかった。あの男は何者だろうという思いが、糸くずのように意識の端にまとわりついていた。
マスターがホットドッグとコーヒーのセットを運んできた。今枝はホットドッグにケチャップとマスタードをたっぷりかけ、かぶりついた。前歯がウインナーの皮を破る感覚が好きだった。
ホットドッグを食べている間、今枝は男のほうを見ないようにした。見ればまた視線が合いそうな気がしたからだ。
最後の一切れを口の中に押し込んだ後、コーヒーカップを口元に運びながら、今枝はちらりと男の様子を窺った。男はちょうど首を動かし、前を向いてコーヒーを飲もうとしているところだった。
たった今まで俺のほうを見ていたのだ――今枝はそんなふうに直感した。
彼はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。ジーンズのポケットに手を突っ込み、千円札を取り出してカウンターの上に置いた。マスターは無言で釣り銭の四百五十円を返してきた。
その間男は殆ど姿勢を変えない。ぴんと背筋を伸ばした体勢でコーヒーを飲んでいた。機械仕掛けのように同じリズム、同じ動きだった。今枝のほうには見向きもしない。
今枝は店を出ると、傘をささずに走って道路を渡った。そしてマンションの階段を駆け上がった。部屋に入る前に『ボレロ』を見下ろしたが、あの初老の男は出てこなかった。
今枝はスチール製の棚に置いてあるミニコンポのスイッチを入れ、CDプレーヤーを動かした。プレーヤーにはホイットニー?ヒューストンのCDが入ったままになっている。ほどなく壁に取り付けた二つのスピーカーから迫力のある歌声が流れてきた。
彼はTシャツを脱いだ。シャワーを浴びるためだった。昨夜は結局あれからシャワーを浴びずに眠ったのだ。おかげで髪もべとついている。
ジーンズのジッパーを下ろした時、玄関のチャイムが鳴った。
いつも聞き慣れているはずのチャイム音が、今日は意味ありげに聞こえた。インターホンに答えないでいると、もう一度鳴った。
今枝はジッパーを上げ、脱いだばかりのTシャツをもう一度着た。一体いつになったらシャワーを浴びられるんだろうと思いながら玄関に出ていき、鍵を外してドアを開けた。
あの初老の男が立っていた。
ふつうならば驚くような局面だったが、今枝は殆ど動じなかった。最初のチャイムを聞いた時から、何となく予感していたことだったのだ。
男は今枝を見て、薄い笑いを浮かべていた。左手に傘を、右手に集金係が持つような黒のセカンドバッグを持っていた。
「何か?」と今枝は訊いた。
「今枝さんですね」男はいった。やはり関西風のアクセントだった。「今枝直巳さん……ですね」
「そうですが」
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんです。お時間、いただけますか」腹に響くような低い声だ。眉間を中心に彫刻刀で刻んだように皺が顔面に走っている。その中の一本が刃物による切り傷だということに今枝は気づいた。
「失礼ですが、あなたは?」
「ササガキといいます。大阪から来ました」
「それは遠くからわざわざ。でも申し訳ないんですが、これから仕事でしてね、すぐに出かけなきゃいけないんです」
「時間はそんなにとらせません。二、三、質問に答えてくれはったらええんです」
「日を改めてください。本当に急いでるんです」
「そのわりには喫茶店で呑気《のんき》に新聞を読んではりましたな」男は口元の端を曲げた。
「私が私の時間をどう使おうとあなたには関係ないはずだ。帰ってください」今枝はドアを閉めようとした。だが男はドアの隙間に、持っていた傘を差し込んだ。
「仕事熱心なのは結構ですな。しかしこっちも仕事でしてね」男は灰色のズボンのポケットに手を入れた。出してきたのは黒い手帳だった。大阪府という文字が見えた。
今枝は吐息をつき、ドアのノブを引く力を緩めた。「警察なら警察と、最初からいえばいいのに」
「玄関先で名乗られるのを嫌う人もおるんですわ。ちょっと話を訊かせてもらえますか」
どうぞ、と今枝はいった。
依頼者のための椅子に男を座らせ、今枝は自分の席についた。じつは依頼者用の椅子は少し低くしてある。それだけの工夫で、仕事に関する話し合いをする時、微妙に優位に立てるものなのだ。だがその神通力もこの男には無力かもしれないなと、皺だらけの顔を見て思った。
今枝は名刺の提示を求めた。持っていないと男はいった。嘘に決まっていたが、そんなことで口論する気はなかった。先程の警察手帳をもう一度見せてくれといった。
「その権利はあるはずですよ。あなたが本物という証拠はどこにもないし」
「もちろん権利はあります。なんぼでも見てやってください」男は手帳を開き、身分証の頁を見せた。名前は笹垣潤三となっていた。写真の顔は少し細いが、同一人物らしい。
「信じてもらえましたか」笹垣は手帳をしまった。「今は西布施警察署というところにおります。刑事課の一係です」
「一係の刑事さん? ということは殺人事件の捜査ですか」意外だった。今枝としては予想していなかった。
「まっ、そんなとこです」
「どういうことかな。私の周りで殺人事件が起きたという話は聞いていませんが」
「そら、事件にもいろいろあります。話にのぼる事件もあれば、誰も話題にせん事件もあります。けど事件には変わりがない」
「いつ、どこで、誰が殺された事件ですか」
笹垣は笑った。顔の皺が複雑な模様を描いた。
「今枝さん、まずこっちの質問に答えてもらえませんか。それを答えてもらえたら、私のほうも礼はさせてもらいます」
今枝は刑事を見た。大阪から来た老刑事は、椅子の上でかすかに身体を揺らしていた。だがその表情にはいささかの揺れもなかった。
「いいでしょう。あなたのほうから先に質問してください。何が訊きたいんですか」
笹垣は傘を身体の前で立て、その柄の上に両手をのせた。
「今枝さん、あんた、二週間ほど前に大阪に行ってきはりましたな。生野区の大江のあたりをうろついてきはった。違いますか」
今枝はいきなり急所をつかれたような気がした。大阪府警と聞いた時から、大阪行きのことを頭に思い浮かべていたのだ。同時に彼は、あの時に布施という駅を利用したことを思い出した。
「どうです?」笹垣は重ねて訊いてきた。だが答えを知っている顔だった。
「行ってきました」今枝は認めるしかなかった。「よく御存じですね」
「あのあたりのことやったら、どこの野良猫が孕《はら》んでるかということまで知ってますがな」笹垣は口を開け、しかし声は出さずに笑った。空気の漏れる奇妙な音がした。その口を一旦閉じてからいった。「何しに行きはりました?」
今枝は高速で頭を回転させながら答えた。「仕事です」
「ほう、仕事。どういう仕事ですか」
今度は今枝が笑って見せた。少しは余裕を示しておきたい。
「笹垣さん。私の職業を知らないわけじゃないでしょう?」
「面白そうな仕事をやってはりますな」笹垣はファイルがぎっしりと詰まったスチール棚を眺めた。「私の友人でも大阪で店を開いてるのがおります。儲かってるのかどうかは知りませんけど」
「つまりこの仕事のために大阪に行ったんです」
「大阪で、唐沢雪穂のことを調べるのが仕事やったわけですか」
やはりそのセンから俺を追ってきたのかと今枝は合点した。どうやって自分に辿り着けたのだろうと考え、昨日の盗聴器事件のことが思い出された。
「何のために唐沢雪穂の生い立ちやら育った環境やらを調べたか、そこのところを話していただけるとありがたいんですけどねえ」笹垣は三白眼で今枝を見た。糸をひくように粘りけのある口調だった。
「御友人がこの仕事をしておられるなら事情はおわかりでしょう。我々は依頼人の名前を明かすことはできないんです」
「つまりどなたかに頼まれて唐沢雪穂のことを調べたとおっしゃるんですな」
「そういうことです」答えながら今枝は、この刑事が唐沢雪穂のことを呼び捨てにしている理由について考えた。余程親しい仲ということか、それとも刑事という職業からくる習慣か。あるいは――。
「縁談絡みですか」笹垣がいきなりいった。
「えっ?」
「唐沢雪穂には縁談の話が持ち上がってるそうですな。先方の家の者としたら、山師みたいな女を嫁にする以上は、十分に身元を調べておきたいと思うのが当然でしょうな」
「何の話です」
「せやから縁談の話です」笹垣は口元に不気味な笑みを浮かべたまま今枝を見た。その視線を机の上に移動させた。「吸うてもかまいませんか」灰皿を指して訊いた。
どうぞ、と今枝は答えた。
笹垣は開襟シャツの胸ポケットからハイライトの箱を取り出した。箱は平たくつぶされていた。箱から抜き取った煙草は少し曲がっていた。それをくわえ、紙マッチで火をつけた。『ボレロ』で貰ったマッチのようだ。
自分にはいくらでも時間があるのだと示すように、刑事はゆったりと煙草を吸った。吐き出された煙は揺れながらのぼっていき、空気に溶け込んだ。
刑事は明らかに今枝に考える猶予を与えようとしていた。手持ちのカードを何枚か示し、相手の出方を見るというやり方が得意技なのかもしれない。喫茶店でわざと存在を示したのも、俺はおまえのことをずっと見張っていたのだと仄《ほの》めかすことで、手持ちカードをより強力なものに見せようという計算があったのだろう。無表情で煙を追う刑事の目には、底知れぬ狡猾さが秘められているようだった。
そのカードの中身を、今枝は猛烈に知りたかった。なぜ殺人を扱う刑事が唐沢雪穂を追っているのか。いや、追っているというのは正確ではない。この男が現在の彼女に関する情報をかなりたくさん持っていることは確実だ。
「唐沢さんに結婚話が持ち上がっているというのは、私も知っています」考えた末に今枝はいった。「だけどそのことと私の調査が関係あるのかと訊かれても、あるともないとも答えるわけにはいきません」
煙草を指に挟んだ格好で笹垣は頷いた。満足そうな表情だった。
笹垣は短くなった煙草を、灰皿の中でゆっくりもみ消した。
「今枝さん、マリオは覚えてはりますか」
「マリオ?」
「スーパーマリオブラザーズ。子供のおもちゃです。もっとも近頃では大人が夢中になってるという話ですけど」
「ファミコンの。ええ、もちろん覚えています」
「数年前、えらいブームがきましたな。おもちゃ屋の前に列ができるぐらいの」
「そうでしたね」戸惑いながら今枝は相槌を打った。どこに行き着く話か先が見えない。
「大阪に、あのおもちゃの偽物を売ろうとしてた男がおりましてね。実際偽物は完成してて、後は売りさばくだけの段階でした。ところがぎりぎりのところで警察が摘発したんです。偽物は押収しました。けど、その男は見つかりません。行方不明なんです」
「逃げたわけだ」
「警察内でも、そう思われてました。いや、今もそう思われてます。指名手配中です」笹垣はセカンドバッグを開け、中から折り畳んだチラシのようなものを取り出した。広げて今枝のほうに見せる。この顔にピンときたら、という馴染みの言葉の下に、髪をオールバックにした五十歳ぐらいの男の顔があった。名前は松浦勇とある。
「一応訊きますけど、この顔をどこかで見たことはありませんか」
「いや、ありません」
「そうでしょうな」笹垣は紙を畳み、再びバッグに入れた。
「あなたはその松浦という男を追っているんですか」
「そうですな。そういう言い方もできます」
「そういう言い方?」今枝は笹垣の顔を見直した。大阪から来た刑事は意味ありげに唇の端を曲げた。
今枝はその瞬間はっと気づいた。殺人を扱う刑事が、単なるゲームソフト偽造の犯人を追いかけているだけのはずがない。笹垣はその松浦という男が殺されたと睨んでいるのだ。彼が探しているのは、松浦の死体であり、松浦を殺した犯人なのだ。
「その男と唐沢雪穂さんとどういう関係があるんですか」今枝は訊いてみた。
「直接の関係はない、かもしれませんな」
「それならどうして……」
「松浦と一緒に消えた男がおるんです」笹垣はいった。「その男もスーパーマリオの偽造に関わってた可能性が大いにあります。で、その男がたぶん……」刑事は言葉を選ぶように少し黙ってから改めて口を開いた。「唐沢雪穂の周りのどこかにおるはずなんです」
「周りのどこか?」今枝は問い直した。「どういう意味ですか」
「言葉のとおりです。どこかに隠れとるはずなんです。テッポウエビっていう海老、御存じですか」刑事がまた先の読みにくい話をし始めた。
「テッポウエビ? いいえ」
「テッポウエビはね、穴を掘ってその中で生活するらしいです。ところがその穴に居候しとるやつがおる。魚のハゼです。そのかわりにハゼはふだん穴の入り口で見張りをしとって、外敵が近づいたら尾ひれを動かして中のテッポウエビに知らせるそうです。見事なコンビネーションや。相利共生というらしいですな」
「ちょっと待ってください」今枝は小さく左手を出した。「唐沢雪穂さんには、そんなふうに共生している男がいるとおっしゃるんですか」
だとしたら大変なことだが今枝は信じられない。これまで調べたかぎりでは、そういう男の存在など全く掴めなかった。
笹垣はにやりと笑った。「私の想像です。証拠なんか、何もありません」
「でも何か根拠があるから、そんなふうに想像するわけでしょう?」
「根拠といえるほどのことはありません。おいぼれた刑事の勘です。せやから当然、外れてる可能性もある。あてにはなりませんわ」
嘘だ、と今枝は思った。岩のように動かせない根拠があるはずなのだ。でなければ、こんなふうに一人で上京してきたりはしないだろう。
笹垣は再びバッグを開け、中から一枚の写真を取り出した。
「この男の顔に見覚えはありませんか」
机の上に置かれた写真に今枝は手を伸ばした。正面を向いた男の顔が写っていた。免許証の写真だろうか。年齢は三十前後ぐらい。顎が尖っている。
どこかで見た顔だ、とまず思った。それを表情に出さぬよう気をつけながら今枝は自分の記憶を探った。彼は人の顔を覚えることを得意としていた。必ず思い出せるという自信があった。
写真を見つめているうちに霧が突然晴れた。写真の男をどこで見たのかを、彼は鮮やかに思い出すことができたのだ。フルネーム、職業、住んでいた場所、そのすべてが瞬《またた》く間にプリントアウトされた。同時に声をあげそうになった。あまりにも意外な人物だったからだ。その驚きをこの場で表現したかった。だが彼はその欲望を辛うじてこらえた。
「この人物が唐沢雪穂さんの共生相手ですか」声の調子をそれまでと変えずに訊いた。
「さあどうでしょうな。で、見覚えは?」
「あるような、ないような」今枝は写真を手に唸ってみせた。「ちょっと確認したいことがあるんですが、隣の部屋に行ってもいいですか。資料と照合したい」
「どういう資料ですか」
「ここに持ってきますよ。少し待っていてください」今枝は笹垣の返事を待たずに立ち上がり、急いで隣の部屋に入って鍵を閉めた。
元来は寝室だが、じつは暗室として使うこともあった。白黒写真の現像ならここでできる。彼は棚に並んでいる写真関連の器具の中から、接写のできるポラロイドカメラを手に取った。現像後にネガとポジペーパーをはがす、ピールアパート方式の写真機だ。
今枝は笹垣の写真を床に置き、カメラを手に持った。ファインダーを覗きながら距離を調整することで焦点を合わせる。レンズのほうを調整していると時間がかかるからだ。
十分にピントが合ったと思われる位置でシャッターを押した。ストロボが光った。
フィルムを引き出し、カメラを元の場所に戻した。そのフィルムを軽く振りながら、もう一方の手で本棚から分厚いファイルを取り出した。そこには唐沢雪穂の調査のために撮影した写真がまとめられている。その中身をぱらぱらと眺め、笹垣に見せても問題がないことを確認した。
ちらりと腕時計を見て撮影から数十秒が経過していることを確認し、彼はフィルムのポジペーパーをはがした。見事に接写ができていた。オリジナルの写真の細かい汚れまでコピーされている。
その写真をそばの引き出しに入れ、オリジナルの写真とファイルを持って今枝は部屋を出た。
「すみません、手間取っちゃいまして」今枝はファイルを机の上に置いた。「見たことがあるような気がしたのは勘違いだったようです。残念ながら、見当たりません」
「このファイルは?」笹垣が訊く。
「唐沢雪穂さんに関する調査資料です。でも大した写真はありません」
「見せてもらっていいですか」
「どうぞ。ただし、どういう写真かは解説できませんのでそのつもりで」
笹垣はファイルされた写真を一枚一枚調べていった。その中身は、唐沢雪穂の実家周辺を撮影した写真や、証券会社の担当者を隠し撮りした写真だった。
最後まで見たところで刑事は顔を上げた。
「面白そうな写真が並んでますな」
「気に入ったものでもありましたか」
「単なる縁談相手の調査にしては妙やと思いますな。たとえば、何のために唐沢雪穂が銀行に出入りする写真まで撮っておかなあかんのか、理解に苦しみます」
「それはまあ、何なりと想像してください」
じつはその銀行には唐沢雪穂の貸金庫があるのだった。尾行することでそのことを突き止めた。銀行に入る前と、銀行から出た後の姿を撮影してあるのは、彼女の身なりに変化がないかどうかを確認するためだ。たとえば入る時にはなかったはずのネックレスが出てきた時にはつけられていたとしたら、それは貸金庫に預けられていたということになる。地道だが、財産をチェックする手段の一つだ。
「今枝さん、一つ約束してもらえませんかねえ」
「何でしょう」
「おたくが今後調査を続けていくうちにこの男――」そういって先程の写真を摘み上げた。「この写真の男を見つけるようなことがあったら、是非知らせてほしいんです。それも早急に」
今枝は写真と笹垣の皺だらけの顔を見比べた。
「では、一つ教えてほしいことがあります」と彼はいった。
「何ですか」
「名前です。その男の名前を教えてください。それから最後に住んでいた場所の住所も」
今枝の要求に、笹垣は初めて逡巡する顔つきになった。
「もしもこの男を見つけてくれはったら、その時にはこの男についての情報をうんざりするほどさしあげますよ」
「私は今、その男の名前と住所が欲しいんですよ」
笹垣は今枝を数秒見つめてから頷いた。机の上のメモ用紙を一枚ちぎり、備え付けのボールペンで何か書いて、今枝の前に置いた。
『桐原亮司 大阪市中央区日本橋2-×-× MUGEN』
「きりはらりょうじ……ムゲンって何です」
「桐原が経営してたパソコンの店です」
「へえ」
笹垣はもう一枚何か書いた。それもまた今枝の前に置いた。笹垣潤三という名前と電話番号らしき数字が並んでいた。ここに連絡しろという意味だろう。
「さてと、えらい長居をしてしまいました。これから仕事やというてはりましたな。どうもお邪魔してすみませんでした」
「いえ」仕事の予定がないことなど見抜いていたくせにと今枝は思った。「ところで、唐沢雪穂のことを調べているのが私だと、どうやって知ったんですか」
笹垣は薄笑いをした。「そういうことはまあ、歩きまわってるうちにわかります」
「歩きまわっているうちに? ラジオを聞いたんじゃないんですか」今枝はツマミを回すしぐさをした。盗聴器の受信機の意味だ。
「ラジオ? 何のことです」笹垣は怪訝そうな顔をした。芝居にしてはあまりにストレートな演技だった。だからこそとぼけているのではないらしいと今枝は察した。
「いや、何でもありません」
笹垣は傘を杖《つえ》のようにつきながらドアに向かった。だがそれを開ける前に振り返った。「余計なお世話ですけど、おたくに唐沢雪穂の調査を依頼しはった人に一言いいたい気分ですな」
「どういうふうにです」
すると笹垣は口元を曲げていった。
「あの女はやめたほうがよろしい。あれはふつうの女狐《めぎつね》やない」
「ええ」今枝は頷いた。「知っています」
笹垣も頷き、ドアを開けて出ていった。