栗原《くりはら》典子《のりこ》は西武池袋線練馬駅の前の商店街を歩き始めた。商店の前の歩道には屋根がついている。駅からアパートまで徒歩で約十分だ。
途中電器屋の前を通ると、通りに面して置かれたテレビからチャゲ&飛鳥の『SAY YES』が流れていた。人気番組の主題歌で、CDも大ヒットしているという話だ。そういえば今日が最終回だというようなことを同僚たちが話していたのを典子は思い出した。彼女はテレビドラマは殆ど見ない。
商店街が途切れると雨を防いでくれるものはなくなった。ブルーとグレーのチェック柄のハンカチを取り出し、それを頭に載せて典子は再び歩きだした。少し行くとコンビニエンスストアがあった。彼女はその店に入り、豆腐と葱《ねぎ》を買った。ビニール傘も買いたかったが、値段を見て我慢した。
アパートは西武池袋線のそばに建っていた。2DKで家賃八万円だ。独り暮らしならば、もっと狭くてもよかった。しかし部屋を探していた頃、彼女はある男と一緒に住むつもりでいた。実際、その男は何度か彼女の部屋で寝泊まりした。だがそれだけだった。その「何度か」が過ぎてしまうと彼女は一人になった。広い部屋は不要になった。しかし引っ越す気力もなく、そのまま住み続けてきた。
引っ越さなくてよかったと、今の彼女は思っている。
古いアパートの壁は、雨に濡れて泥のような色に変わっていた。その壁に服を触れさせぬよう気をつけながら、彼女は外階段を上がった。建物の一階と二階に四つずつ部屋がある。典子の部屋は二階の一番奥だった。
鍵を外し、ドアを開けた。相変わらず、室内は薄暗い。入ってすぐの台所も、奥の和室も、明かりがついていなかった。
「ただいま」声をかけながら、台所の明かりをつけた。留守でないことは、玄関の沓脱《くつぬ》ぎを見ればわかる。薄汚れたスニーカーが脱ぎ捨てられている。『彼』はほかには靴を持っていない。
奥には和室のほかにドアのついた洋室がある。そのドアを彼女は開いた。その部屋もやはり薄暗かったが、光を発しているものがあった。窓際に置かれたパソコンのモニターだ。その前で『彼』が胡座をかいている。
「ただいま」典子は男の背中に向かって、もう一度声をかけた。
キーボードを叩いていた男の手が止まった。彼は身体を捻ると、本棚に置いた目覚まし時計を見てから彼女のほうに顔を向けた。
「遅かったな」
「居残りさせられちゃった。おなかすいたでしょ。今すぐ晩御飯にするからね。今日も湯豆腐だけど、構わない?」
「何でもいい」
「じゃ、ちょっと待ってね」
「典子」
台所に戻ろうとする彼女を、男は呼び止めた。彼女は振り返った。男は立ち上がり、近づいてきた。彼女の首筋に掌を当てた。
「濡れたのか」
「少しだけ。でも大丈夫」
男の名前は秋吉雄一といった。ただしそれが本名なのかどうか、典子は知らなかった。本人がそう名乗っている以上、彼女としてはそれを信じるしかなかった。
典子が秋吉と出会ったのは、今年の五月半ばだ。少し肌寒い日だった。彼女がアパートの近くまで帰ってくると、男が道端でうずくまっていた。三十歳前後と思われる、痩せた男だった。黒いデニムのパンツを穿き、黒い革のジャンパーを羽織っていた。
「どうかしたんですか」彼女は男の様子を覗き込みながら訊いた。男の顔は歪《ゆが》み、前髪の垂れた額には脂汗が浮かんでいた。
男は右手で腹を押さえていた。もう一方の手を、大丈夫だ、というように振った。しかしとても大丈夫そうには見えなかった。
腹を押さえる手の位置から類推すると、どうやら胃が痛んでいるらしかった。
「救急車、呼びましょうか」
ここでも男は手を振った。首も一緒に横に振った。
「時々、こういうことがあるんですか」彼女は訊いた。
男は首を振り続ける。
典子は少し迷った後、「ちょっと待っててくださいね」といって、アパートの階段を上がった。そして自分の部屋に入ると、ポットの湯を一番大きいマグカップに入れ、水を少し足した後、それを持って再び男のところへ戻った。
「これ、飲んでください」彼女はマグカップを男の顔の前に差し出した。「とにかく胃の中を奇麗にすることが先決だから」
男はマグカップに手を伸ばそうとはしなかった。そのかわりに意外なことをいった。
「酒、ないかな」
「えっ?」と彼女は訊き返した。
「洒……ウイスキーがあると一番いい。ストレートで飲めば、たぶん痛みはなくなる。前に一度、そんなふうにして治った」
「馬鹿なこといわないでよ。そんなことしたら、胃がびっくりしちゃうわよ。とにかく、これを飲みなさい」典子は再びマグカップを差し出した。
男は顔をしかめたままマグカップを見つめていたが、とにかく何もしないよりはましだとでも思ったか、渋々といった調子でマグカップに手を伸ばした。そして中の白湯《さゆ》を一口飲んだ。
「全部飲みなさい。胃の中を洗うんだから」
典子がいうと、男はげんなりした顔を作った。だが文句はいわず、マグカップの中のぬるま湯を一気に飲み干した。
「気分はどう? 吐き気は?」
「少しする」
「じゃあ、吐いたほうがいい。吐ける?」
男は頷き、ゆっくりと立ち上がった。腹を押さえながら、アパートの裏に回ろうとしている。
「ここで吐いていいよ。大丈夫、あたしはそういうの見るの、慣れてるから」
典子の言葉が耳に届いていないはずはなかったが、男は黙ってアパートの裏に消えた。
彼はしばらく出てこなかった。呻《うめ》き声が時折聞こえた。典子はほうっておくわけにもいかず、その場で待っていた。
やがて男が出てきたが、先程までよりは幾分楽になったような顔をしていた。置いてあったゴミ箱の上に腰をのせた。
「どう?」と典子は訊いてみた。
「少しましになった」と男は答えた。ぶっきらぼうな口調だった。
「そう、よかった」
男は相変わらず顔をしかめていたが、ゴミ箱に座ったまま足を組むと、ジャンパーの内ポケットに手を入れた。取り出したのは煙草の箱だった。一本を口にくわえ、使い捨てライターで火をつけようとした。
典子は急ぎ足で彼に近づき、その口から素早く煙草を奪った。男はライターを持ったまま、意外なものを見る目で彼女を見た。
「自分の身体が大事だったら、煙草なんか吸わないほうがいいわよ。煙草を吸うと胃液の分泌が通常の何十倍にもなるってこと知ってる? 満腹すると煙草を吸いたくなるのは、そのせいよ。でも胃に食べ物が入ってない状態だと、胃壁そのものを傷めることになるの。その結果、胃潰瘍《いかいよう》になる」
典子は男から取り上げた煙草を二つに折った。それからそれを捨てるところを探した。それが男の尻の下にあることに気づいた。
「ちょっと立って」
男を立たせ、彼女はゴミ箱に煙草を捨てた。それから男のほうを向き、右手を出した。
「箱を出して」
「箱?」
「煙草の箱」
男は苦笑を浮かべた。それから内ポケットに手を入れ、箱を取り出した。典子はそれを受け取り、ゴミ箱に放り込んだ。蓋を閉め、ぱんぱんと両手をはたいた。
「どうぞ。座っていいわよ」
典子がいうと、男は再びその上に腰掛けた。彼女に少し関心を持った目をしていた。
「あんた、医者かい?」と彼は訊いた。
「まさか」彼女は笑った。「でも、当たらずとも遠からずってやつ。医者じゃなくて薬剤師」
「なるほど」男は頷いた。「納得した」
「家はこの近く?」
「近くだ」
「そう。自分で歩いて帰れる?」
「帰れる。おかげで、もう痛みはなくなった」男はゴミ箱から立ち上がった。
「時間があったら、病院できちんと診てもらったほうがいいわよ。急性胃炎というのは、案外怖いんだから」
「病院はどこだ?」
「そうね。この近くなら、光が丘の総合病院がいいと思うけど」
典子が話している途中で男は首を振った。
「あんたの勤めている病院だ」
「ああ」典子は頷いた。「帝都大付属病院。荻窪《おぎくぽ》にある……」
「わかった」男は歩きだした。だが途中で立ち止まり、振り返った。「ありがとう」
お大事に、と典子はいった。男は片手を上げ、再び歩きだした。今度はそのまま夜の街に消えていった。
その男と、もう一度会えるとは、彼女は考えていなかった。それでも次の日から、病院にいる間も、何となく彼のことが気になって仕方がなかった。まさか本当に病院に来ることはないだろう。そう思いながらも、彼女は時折内科の待合室を覗きに行ったりした。薬局に回ってくる処方箋が胃の病気に対応するもので、患者が男性だったりすると、調剤しながら、あれこれ想像を膨らませた。
だが結局、男は病院には現れなかった。彼が彼女の前に姿を見せたのは、最初に会ったのと同じ場所でだった。ちょうど一週間が経っていた。
この日、彼女がアパートに帰ったのは、夜の十一時を少し過ぎた頃だった。典子の職場では日勤と夜診がある。この時は夜診に当たっていた。
男は前と同じようにゴミ箱に座っていた。暗かったので、それが彼だとは最初気づかず、典子は無視して通り過ぎようとした。率直にいえば、気味が悪かった。
「帝都大付属病院は人使いが荒いようだな」男が声をかけてきた。
その声を典子は覚えていた。彼女は彼を見て、驚きの声をあげた。
「どうしてこんなところにいるの?」
「あんたを待っていた。この間の礼をしようと思ってな」
「待ってたって……いつから?」
「さあ、いつからだったかな」男は腕時計を見た。「ここへ来たのは六時頃じゃなかったかな」
「六時?」典子は目を見開いた。「じゃあ、五時間も待ってたの」
「前にあんたと会ったのが、六時頃だったからな」
「先週は日勤だったから」
「日勤?」
「今週は夜診なの」典子は自分の職場には二つの勤務時間が存在することを説明した。
「そうか。まあ、無事に会えたんだから、どうでもいいことだ」男は腰を上げた。「飯でも食いに行こう」
「このあたり、もう食事のできる店なんかないわよ」
「新宿ならタクシーで二十分もあれば着く」
「遠くには行きたくない。疲れてるの」
「そうか。それなら仕方がないな」男は両手を小さく上げた。「またそのうちにってことにしよう」
じゃ、といって男は歩き始めた。その後ろ姿を見て、典子は軽い焦りを覚えた。
「待って」彼女は男を呼び止めていた。振り向いた彼にいった。「あそこなら、まだ大丈夫よ」道路を挟んで向かい側にある建物を指差した。
その建物には『デニーズ』の看板が上がっていた。
ビールを飲みながら、ファミリーレストランに入るのは五年ぶりぐらいだと男はいった。彼の前にはソーセージやフライドチキンを盛った皿が並んでいる。典子は和風のセットメニューを注文した。
秋吉雄一というのは、この時彼がいった名前だ。彼が出してきた名刺にも、その名前が印刷されていた。だからこの時には彼が偽名をかたっている可能性など、典子は全く考えなかった。
名刺にはメモリックスという社名が入っていた。コンピュータのソフト開発の会社ということだったが、その会社名を典子は当然知らなかった。
「要するにコンピュータ専門の下請け業者だ」
秋吉が自分の会社や仕事について典子に語った内容は、これだけだった。その後、彼はこういった話題については、一切口にしなくなった。
逆に彼は典子の仕事の内容について、細かく知りたがった。勤務形態、給与、手当、そして日々の仕事内容などだ。こんな話は退屈だろうと思うのだが、話を聞いている間、彼の目は真剣な光を放っていた。
典子にしても男性と交際した経験がないわけではない。しかしそれまでの相手とのデートでは、彼女は専ら聞き役だった。どういう話をすれば相手が喜ぶのかまるでわからなかったし、元来話し下手でもあった。ところが秋吉は彼女に話すことを要求した。またどんな話をしても、強い関心を示してくれた。少なくともそのように見えた。
「また連絡する」帰り際に彼はいった。
実際、その三日後に秋吉は電話をかけてきた。今度は新宿に出た。カフェバーで酒を飲みながら、典子はまたしても彼相手にいろいろな話をすることになった。彼が次々に質問してくるからだった。故郷のこと、生い立ち、学生時代。
「あなたの実家はどこなの」典子のほうから訊いてみた。
彼の答えは、「そんなものはない」だった。少し不機嫌になっていた。それで彼女はこのことに触れるのはよそうと思った。ただ、彼が関西の出身だということは、言葉のアクセントからわかっていた。
店を出た後、秋吉は典子をアパートまで送ってくれた。アパートが近づくにつれ、迷いが彼女の心の中を駆けめぐっていた。このままふつうに挨拶して別れるべきか、彼を部屋に上げるべきか、だった。
その決断のきっかけは、秋吉が与えてくれた。アパートのそばまで来たところで、彼は自動販売機の前で立ち止まった。
「喉《のど》が渇いたの?」と彼女は訊いた。
「コーヒーが飲みたいんだ」
彼は硬貨を機械に投入した。ディスプレイを一瞥《いちべつ》した後、缶コーヒーのボタンを押そうとした。
「待って」と彼女はいった。「コーヒーなら、あたしが淹《い》れてあげるから」
彼の指先がボタンの手前で止まった。彼は特に驚いた顔もせず、一つ頷いてから硬貨の返却レバーを捻った。からんからん、と硬貨の戻る音がした。彼は何もいわず返却口から硬貨を取った。
部屋に入ると、秋吉はじろじろと室内を眺めた。コーヒーを淹《い》れながら、典子は気が気でなかった。「前の」男の痕跡を彼が発見するのではないかと思ったからだ。
典子が淹《い》れたコーヒーを彼はおいしそうに飲んだ。そして部屋が奇麗に片づいていることを褒《ほ》めた。
「でも最近、あまり掃除をしてないの」
「そうか。本棚の上の灰皿に埃がかぶっているのも、そのせいかな」
彼の台詞にぎくりとした。典子はその灰皿を見上げた。それは前の男が使っていたものだった。彼女は煙草を吸わない。
「あれは……掃除をしてないせいじゃない」
「ふうん」
「二年ぐらい前まで、付き合っていた人がいて」
「そういう告白は、特に聞きたくもない」
「あ……ごめんなさい」
秋吉が椅子から立ち上がった。それで帰るのかなと思い、典子も腰を浮かせた。その直後、彼の腕が伸びてきた。声を出す暇もなく、彼女は抱きすくめられていた。
しかし彼女は抵抗しなかった。彼が唇を寄せてくると、身体の力を抜いて目を閉じたのだった。