「――というわけで、高脂血症治療剤『メバロン』につきましては、米国食品医薬品局の製造認可を受けられることが確実となっております。したがいまして、お手元の資料にありますとおり、米国での販売を進めていきたいと考えております」やや固い口調で発表者はいい、背筋を伸ばして会議室内を見渡した。彼が唇を舐《な》めるのを、篠塚一成は見逃さなかった。
篠塚薬品東京本社内にある二〇一会議室で、新薬の海外展開に関する会議が行われていた。出席者は十七名。殆どが営業本部の人間だが、開発部長や生産技術部長の姿もある。出席者の中で最も地位が高いのは常務の篠塚康晴だ。四十五歳の常務取締役は、コの字形に並べた会議机の中央に座り、射るような目を発表者に向けていた。一言一句聞き逃してなるものかという気迫に満ちている。やや力みすぎだなと一成などは思うのだが、それも仕方のないことかもしれなかった。親の七光で常務の席に納まっているにすぎないという陰口を本人が知らないはずがなく、こうした場で欠伸《あくび》の一つでも漏らすことの危険性も、十分に承知しているに違いなかった。
その康晴が徐《おもむろ》に口を開いた。
「スロットルマイヤー社へのライセンスアウトの契約日程が、前回会議で報告された時よりも二週間も遅れていますね。これはどういうことでしょう?」資料から顔を上げ、発表者を見た。メタルフレームの眼鏡のレンズが、きらりと光った。
「輸出形態に関して、少し確認に手間取ったところがありまして」答えたのは発表者ではなく、前のほうに座っている小柄な男だった。声が少しうわずっていた。
「原末の形で輸出するんじゃないんですか。ヨーロッパへの輸出と同様」
「はい、そうです。その原末の扱いについて、少し行き違いがございまして」
「聞いてないなあ。それに関する報告書は、私のところに回してくれましたか」康晴は自分のファイルを開いた。こんなふうに、自分のファイルを会議に持ち込む取締役は少ない。というより、一成の知る限りでは康晴だけだった。
小柄な男は焦《あせ》った様子で隣の男や発表者と何やらひそひそ言葉を交わした後、常務のほうを向いた。
「すぐに関連資料をお届けします」
「そうしてください。大至急」康晴はまた自分のファイルに目を落とした。「『メバロン』についてはわかりましたが、抗生物質と糖尿病治療薬のほうはどうなっていますか。米国での販売申請は終わっているはずでしたが」
これについては発表者が答えた。
「抗生物質『ワナン』、糖尿病治療薬『グルコス』共、現在治験段階です。来月はじめには、レポートが届くことになっております」
「うん、それもなるべく急いだほうがいいですね。他社でも、新薬を開発して海外からの工業所有権収入を増やそうという動きが活発のようですから」
はい、と発表者を含め、何人かが頷いた。
会議は一時間半ほどで終わった。一成が自分の荷物を片づけていると、康晴が近づいてきて耳元でいった。「後で部屋に来てくれないか。話がある」
「あ……はい」と一成は小声で答えた。
康晴は即座に離れていった。従兄弟《いとこ》関係ではあるが、だからこそ社内では私的な会話は慎むようにと、双方の父親から厳しくいわれている。
一成はいったん企画管理室の席に戻った。彼の肩書きは副室長だった。もともとこの職場に副室長というポストはない。つまり彼のために作られたものだ。一成は去年まで営業本部、経理部、人事部といった職場を渡り歩いてきた。様々な職場を経験した後、企画管理室に入るというのは、篠塚一族の男の標準的なコースだった。一成としては、各部署を総合的に監督する現在の職場よりも、他の若い社員と同じように実務にあたりたかった。実際そのように父親たちに希望したこともある。しかし篠塚一族の血を受け継いでいる以上それは無理だということは、会社に入って一年も経つ頃には理解できていた。複雑なシステムを円滑に機能させるためには、上司にとって使いづらい歯車が存在してはいけないのだ。
一成の机のすぐ横に、黒板式の行先表示板が置いてある。その内容を二〇一会議室から常務室に書き換え、改めて部屋を出た。
常務室のドアをノックすると、「はい」という低い声で返事があった。一成はドアを開けた。康晴は机に向かって本を読んでいるところだった。
「やあ、わざわざすまん」康晴は顔を上げていった。
「いいえ」といいながら一成は室内を見回す。ほかに人がいないことを確認したのだ。といっても、机とキャビネットと簡単な応接セットを置いてあるだけの、決して広いとはいえない部屋だ。
康晴はにやりと笑った。「さっき、海外直納部の連中、あわててたな。俺がライセンス契約の日程まで覚えているとは思わなかったんだろう」
「そうでしょうね」
「責任者の俺に、あんな大事なことを報告しないとは、奴等もいい根性をしている」
「若い常務を甘く見てはいけないと少しは思い知ったんじゃないですか」
「だといいがな。ま、しかし、それも一成のおかげだ。礼をいうよ」
「いや、そんなことはいいです」一成は苦笑して手を振った。
ライセンス契約の日程変更のことを康晴に教えたのは、たしかに一成だった。彼は海外直納部にいる同期生から聞き出したのだ。時折このようにして各部署の細かい情報を康晴に流すのも彼の仕事の一つだった。あまり楽しい仕事ではないが、若い常務の手足になってほしいと現社長つまり康晴の父親からも頼まれている。
「で、ご用というのは?」一成は訊いた。
康晴は顔をしかめた。
「二人きりの時には、そういう堅苦しい話し方はやめてくれといってるじゃないか。それに、話というのは仕事のことじゃないんだ。プライベートなことだ」
いやな予感がした。一成は思わず右手を握りしめていた。
「まあちょっと、そこへ座ってくれ」康晴が立ち上がりながらソファを勧めた。
それでもまず康晴がソファに座るのを見届けてから、一成も腰を下ろした。
「じつは今、これを読んでいたんだ」康晴が一冊の本をテーブルに置いた。表紙に『冠婚葬祭入門』というタイトルが印刷されている。
「何かおめでたいことでも?」
「それならいいんだが、反対だよ」
「じゃあ悪いほうですか。どなたかお亡くなりに?」
「いや、まだ亡くなっちゃいない。そのおそれがあるということだ」
「どなたですか。差し支えなければ……」
「黙っていてくれれば差し支えはないよ。彼女のお母さんだ」
「彼女というと……」訊くまでもないと思ったが、一成は確認していた。
「雪穂さんだ」康晴は幾分照れ臭そうに、しかしきっぱりとした口調でいった。
やはり、と一成は思った。意外でも何でもなかった。
「彼女のお母さん、どこか悪いんですか」
「昨日、彼女から連絡があってね、大阪の家で倒れたそうだ」
「倒れた?」
「いわゆるクモ膜下出血というやつだ。彼女のところへは、昨日の朝連絡があったらしい。電話してきたのは茶道のお弟子さんで、お茶会の打ち合わせをするつもりで家に行ったところ、庭で雪穂さんのお母さんが倒れているのを見つけたということだ」
唐沢雪穂の母親が大阪で独り暮らしをしているということは一成も知っていた。
「すると今は病院に?」
「すぐにそのまま病院に運ばれたらしい。雪穂さんは病院から俺のところに電話してきたんだ」
「なるほど。それで、容体のほうは?」一成は訊いたが、無意味な質問だった。順調に回復しているのであれば、康晴が『冠婚葬祭入門』などを読んでいるはずがなかった。
予想通り康晴は小さく首を振った。
「さっきもちょっと連絡をとってみたんだが、ずっと意識が戻らないということだ。医者も、あまりいい話はしてくれないみたいだな。危ないかもしれないと彼女も電話でいっていた。珍しく気弱な声を出していたな」
「年齢はおいくつなんですか」
「ええと、もう七十歳ぐらいという話だったんじゃないかな。彼女はほら、本当の娘じゃないだろう? だから、年齢が離れているわけだよ」
一成は頷いた。そのことなら知っている。
「それで、どうして常務がこういうものをお読みになっているんですか」テーブルの上の『冠婚葬祭入門』を見ながら尋ねた。
「常務、というのはやめろよ。少なくともこういう話をしている間だけでも」康晴は、うんざりした顔を見せた。
「康晴さんが彼女のお母さんの葬式の心配までする必要はないんじゃないかな」
「それは、まだ亡くなってもいないのに、葬式のことを考えるのは気が早すぎるという意味かい?」
一成はかぶりを振った。「康晴さんがすべきことではないという意味だよ」
「どうしてだ」
「康晴さんが彼女にプロポーズしたのは知ってるよ。でも彼女のほうからは、まだ何も返事をしてきてないわけだろう。つまり現時点では何というか……」一成は言葉を選ぼうとし、結局思いついたままをいった。「彼女はまだ赤の他人ということだ。そんな人の母親が亡くなったからといって、天下の篠塚薬品の常務取締役がばたばたと動くのは問題だといっているわけだよ」
赤の他人と聞いた瞬間、康晴は大きく後ろにのけぞった。そのまま天井を見上げ、声を出さずに笑い顔を作った。やがてその顔を一成に向けた。
「赤の他人とは驚いたな。たしかに彼女のほうからイエスという返事はもらっていない。だけどノーという返事も聞いてはいないんだ。脈がないなら、すでにふられているはずじゃないかな」
「その気があるなら、すでに答えているよ。イエスとね」
康晴は首と一緒に掌もひらひらと振った。
「一成はまだ若いし結婚したことがないから、そんなふうに思うんだ。俺もそうだが彼女にしても、すでに結婚経験がある。そういう人間の場合、もう一度改めて所帯を持つとなると、どうしても慎重になってしまうものなんだ。特に彼女は、前の旦那さんとは死別したわけじゃない」
「それはわかっているけど」
「第一だ」康晴は人差し指を立てた。「自分の母親が危ないということを、赤の他人に知らせてくるか? 辛い時に彼女が俺を頼ったというのは、一つの回答でもあるかなと、俺は考えているんだけどね」
それで先程から機嫌がいいのかと、一成は合点がいった。
「何より、知人が困っている時に手を差し伸べてやるのは当然のことじゃないのかな。これは社会人としてだけでなく、人間として」
「彼女は困っているわけかい。困って、康晴さんに電話してきたのかい」
「もちろん気丈夫な彼女だから、泣き言なんかはいわなかったし、俺に助けを求めたりもしなかった。彼女は単に状況を報告してきただけだ。だけど困っていることは簡単に想像がつく。考えてもみろ、故郷とはいえ、大阪には身寄りもないんだぞ。もしお母さんがこのまま亡くなったりしたら、悲しい上に葬式の準備やら何やらで、さすがの彼女もパニックになってしまうかもしれない」
「葬式というのはね」一成は従兄の顔を見つめていった。「その準備段階も含めて、遺族が悲しんだり嘆いたりする暇がないようにプログラムされているんだ。彼女は葬儀屋に一本電話をすればいい。それだけで、あとはすべてプロがやってくれる。彼女はプロにいわれるまま、書類にサインしたり、金を用意したりするだけでいいんだ。そうして少し暇ができれば遺影に向かって泣けばいい。どうということはないさ」
康晴は、理解できない、というように層を寄せた。
「よくそんな言い方ができるな。雪穂さんはおまえの大学の後輩でもあるんだろ」
「大学の後輩じゃない。ダンス部で合同練習をしていたというだけのことだ」
「細かいことはどうだっていい。どっちにしろ、彼女を俺に会わせたのはおまえなんだぞ」康晴は一成を見据えていった。
だからそのことを後悔している、といいたいのを一成は我慢して黙り込んだ。
「とにかく」康晴は足を組み、ソファにもたれた。「こんなことをあまり手回しよく準備するのもよくないだろうが、彼女のお母さんにもしものことがあった場合のことを、俺としては考えておきたい。だけどさっき一成もいったように、俺には俺の立場というものがある。お母さんがなくなったからといって、すぐに大阪に飛んでいけるかどうかはわからない。そこでだ」そういって彼は一成の顔を指差した。「場合によっては、一成に大阪へ行ってもらいたい。おまえなら土地鑑がある。雪穂さんも気心が知れていて安心だろう」
話を聞くうちに、一成は顔をしかめていた。
「康晴さん、それは勘弁してくれ」
「どうして?」
「それは公私混同というものだよ。ただでさえ、篠塚一成は常務の個人秘書だと陰口を叩かれている」
「役員の補佐をするのも、企画管理室の業務のはずだぞ」康晴は睨みつけてきた。
「これは会社とは関係のないことだろ」
「関係があるかないかなんてことは、後から考えればいい。おまえが考えるべきことは、誰に命令されているのかということだけだ」そういってから康晴はにやりと口元を緩め、一成の顔を覗き込んだ。「違うか?」
一成はため息をついた。二人きりの時には常務と呼ぶなといったのは誰だっけ、といいたいところだった。
自分の席に戻ると、一成は受話器を取り上げた。もう一方の手で机の引き出しを開け、システム手帳を取り出す。アドレスノートの一番最初のページを開いた。氏名欄に今枝と書いてあるところを目で探す。
電話番号を確認しながら番号ボタンを押し、受話器を耳にあてて待った。呼び出し音が一回、二回と鳴る。右手の指先で机の表面をこつこつと叩いた。
呼び出し音が六回鳴ったところで電話の繋がる気配があった。だが一成は、だめだな、と思った。今枝の電話機は、呼び出し音六回で留守番機能が作動するようにセットされているのだ。
予想通り、この後受話器から聞こえてきたのは、今枝の低い声ではなかった。コンピュータで合成された、鼻がつまったような女性の声だった。ただ今出かけております、御用の方は、発信音の後、お名前、電話番号、御用件をお話しください――一成は発信音が聞こえる前に受話器を置いた。
思わず舌打ちをした。その音がやけに大きかったせいか、すぐ前の席に座っている女性社員がぴくりと首を動かした。
どういうことだ、と彼は思った。
今枝直巳と最後に会ったのは八月の半ばだ。あれから一か月以上が経つというのに、何の連絡もない。何度か一成のほうから電話してみたが、いつも留守なのだ。留守番電話には、二度ほどメッセージを吹き込んである。連絡してほしい、という内容だ。ところが今枝からは電話一本かかってこない。
旅行にでも出ているのだろうかと一成は考えた。だとしたら、ずいぶんといい加減な仕事のやり方をする探偵だ。こまめに連絡することは、最初に仕事を依頼した時から頼んでおいたことだった。
あるいは、と一成は思った。あるいは唐沢雪穂を追って大阪に行っているのか。その可能性もなくはないが、それにしても依頼主に連絡してこないのはおかしかった。
机の端に書類が一枚載っているのが目に入った。彼はそれを手に取った。二日前に行われた会議の議事録が回ってきているのだ。物質の化学構造を自動的に決定するコンピュータシステムの開発についての会議だった。興味ある研究で一成も会議に出たのだが、今は機械的に目を通しているだけだ。頭の中では全く別のことを考えている。康晴のこと。そして唐沢雪穂のこと。
彼女の店に康晴を連れていったことを一成は心底悔やんでいた。高宮誠に頼まれ、一度だけ覗いてみる気になったのだが、ごく軽い気持ちで康晴を誘ってみた。それが間違いだった。
康晴がはじめて雪穂と会った時のことを、一成は鮮明に覚えている。あの時の康晴の様子は、とても恋に落ちたようには見えなかった。むしろ不機嫌そうでさえあった。雪穂から話しかけられても、無愛想な受け答えしかしていなかった。しかし後から考えてみると、あれこそが心を激しく揺さぶられた時に康晴が見せる反応だったのだ。
無論彼に好きな女性ができること自体は喜ばしいことだった。まだ四十五歳だというのに、子供二人を抱えて一生独身を通さねばならぬ理由などどこにもない。適当な相手がいれば再婚すべきだと一成は思っている。
だがとにかく相手が気に食わなかった。
唐沢雪穂のどこが気に食わないのか、じつをいうと彼自身にもよくわからなかった。今枝に話したように、彼女の周りに得体の知れない金の動きがあることはたしかに不気味だ。しかしどちらかというとそれも、後から付けた理由だったようにも思える。やはり、大学のダンス練習場で初めて彼女を見た時の印象が、そのまま残っているのだとしかいえなかった。
一成は、彼女との結婚だけは見合わせてほしいと思っている。だが康晴を説得するには、それなりの理由が必要だった。あの女は危険だ、やめたほうがいい、と何度いったところで、彼はとりあってはくれないだろう。いや、たぶん怒りだすに遠いなかった。
それだけに一成は、今枝の調査に期待していた。彼が唐沢雪穂の正体を暴いてくれることに、すべてを賭けているといってもよかった。
つい先程、康晴から頼まれたことが脳裏に蘇った。万一の時には、一成は大阪に行かねばならない。しかも唐沢雪穂を助けるために。
冗談じゃない。彼は心の中で呟いた。そして一方で、いつか今枝からいわれたことを思い出していた。
彼女が本当に好きなのはあなたの従兄さんではなく、あなたではないか――。
「冗談じゃない」今度は小さく声を出して彼はいった。