「九十九パーセントまではこぎつけたわけね」すべてのチェックを終えた後で雪穂がいった。
「九十九パーセント? まだ完璧じゃありませんか」夏美は訊いた。
「いいのよ、一パーセントの不足があることで、明日への目標ができるから」雪穂はそういってにっこりした。「さあ、後は身体を休めるだけよ。今夜はお互い、アルコールはほどほどにね」
「祝杯は明日ですね」
「そういうこと」
赤いジャガーに二人で乗り込んだ時には、十一時半になっていた。夏美がハンドルを握り、雪穂は助手席で深呼吸を一つした。
「がんばりましょうね。大丈夫、あなたならきっとうまくやれる」
「そうでしょうか。だといいんですけど」夏美は少し弱気になっている。この大阪店の経営は、実質的に夏美に任されているのだ。
「自信を持ちなさい。自分がナンバーワンだと思うこと。いいわね」雪穂は夏美の肩を揺すった。
はい、と答えてから、夏美は雪穂を見た。
「だけど正直いって怖いです。社長みたいにやれるかどうか、とても不安です。社長は怖いと思ったことありませんか」
すると雪穂は大きな目を真っ直ぐに向けてきた。
「ねえ、夏美ちゃん。一日のうちには太陽の出ている時と、沈んでいる時があるわよね。それと同じように、人生にも昼と夜がある。もちろん実際の太陽みたいに、定期的に日没と日の出が訪れるわけじゃない。人によっては、太陽がいっぱいの中を生き続けられる人がいる。ずっと真っ暗な深夜を生きていかなきゃならない人もいる。で、人は何を怖がるかというと、それまで出ていた太陽が沈んでしまうこと。自分が浴びている光が消えることを、すごく恐れてしまうわけ。今の夏美ちゃんがまさにそうよね」
いわれていることは何となくわかった。夏美は頷いた。
「あたしはね」と雪穂は続けた。「太陽の下を生きたことなんかないの」
「まさか」夏美は笑った。「社長こそ、太陽がいっぱいじゃないですか」
だが雪穂は首を振った。その目には真摯《しんし》な思いが込められていたので、夏美も笑いを消した。
「あたしの上には太陽なんかなかった。いつも夜。でも暗くはなかった。太陽に代わるものがあったから。太陽ほど明るくはないけれど、あたしには十分だった。あたしはその光によって、夜を昼と思って生きてくることができたの。わかるわね。あたしには最初から太陽なんかなかった。だから失う恐怖もないの」
「その太陽に代わるものって何ですか」
「さあ、何かしらね。夏美ちゃんも、いつかわかる時が来るかもしれない」そういうと雪穂は前を向いて座り直した。「さっ、帰りましょ」
それ以上訊くことはできず、夏美はエンジンをかけた。
雪穂の宿泊場所は、淀屋橋にあるホテルスカイ大阪だった。夏美はすでにこちらに部屋を借りている。北天満《きたてんま》のマンションだ。
「大阪の夜は、本当はこれからが本番なのよね」車から外を眺めながら雪穂がいった。
「そうですね。大阪は遊ぶところには困りませんから。あたしも、昔はよう遊びました」
夏美がいうと、隣で雪穂がふっと笑う気配があった。
「やっぱりこっちにいると、大阪弁に戻ってしまうみたいね」
「あっ、すみません。つい……」
「いいのよ。ここは大阪なんだから。あたしもこっちに来た時ぐらいは、大阪弁を使おうかな」
「それ、すごくいいと思います」
「そう?」雪穂は微笑んだ。
やがてホテルに到着した。エントランスの前で、雪穂を降ろした。
「じゃあ社長、明日はよろしく」
「うん、今夜のうちに急用があったら携帯電話にかけてね」
「はい、わかっています」
「夏美ちゃん」雪穂は右手を出してきた。「勝負はこれからやで」
はい、と答えて、その手を握った。