春日井一家が住んでいるマンションは、バス通りから百メートルほど歩いたところにあった。六階建ての、まだ新しい建物だった。そこの五階に彼等の部屋はあった。
午前中の訪問にも拘《かか》わらず、春日井忠彦はすぐに二人を招き入れてくれた。捜査に役立てるなら、積極的に協力しようということなのだろう。昨日会った時よりも、かなり落ち着いて見えた。
「奥さんのお加減はどうですか」松宮は訊いた。集会所で襖越しに聞いた隙間風のような泣き声が、まだ耳に残っていた。
「寝室で休んでいます。呼んできたほうがいいですか。本人も、もう話が出来るといってましたけど」春日井はいった。
あまり無理はさせたくないと松宮は思ったが、すぐに加賀が、「お願いします」と隣でいった。
「じゃあ、ちょっと呼んできます」春日井はリビングを出ていった。
「なんか、気の毒だな」松宮は呟いた。
「同感だが、仕方がない。被害者の日常を一番よく知っているのは母親だ。ふだん会社に行っている父親からじゃ、ろくな話は聞き出せない」そういいながら加賀は室内を見回している。
松宮もつられて周囲を眺めた。ダイニングセットとリビングセットがコンパクトに配置された洋室だ。大きな画面の液晶テレビの横には、アニメのDVDをずらりと並べた棚が置いてある。被害者が好きだったのだろう。
ダイニングテーブルの上には、コンビニで買ってきたと思われる弁当が二つ載っていた。一方は食べかけで、もう一つは全く手つかずのようだ。昨夜の夫妻の夕食だろうと松宮は推測した。
春日井が戻ってきた。彼の後ろから痩せた女性も入ってきた。長い髪を後ろで束ね、眼鏡《めがね》をかけていた。化粧気は殆どなかったが、口紅だけはつけていた。たった今、塗ったのかもしれない。顔色はよくなかった。
妻の奈津子です、と春日井が紹介した。
彼女は会釈した後、刑事たちの前を見た。
「あなた、お茶ぐらい出さないと」
「いえ、結構です」即座に加賀がいった。「どうぞ、おかけになってください。申し訳ありません。お疲れのところを」
「何かわかったんでしょうか」か細い声で奈津子は訊いてきた。
「わかったこともありますが、わからないこともたくさんあります。その一つが、なぜ優菜ちゃんが一人で外出したのかということです。そういうことはしばしばあったんでしょうか」
奈津子はゆっくりと瞬《まばた》きをしてから口を開いた。
「出かける時にはちゃんと声をかけなさいといつもいってたんですけど、勝手に出ていくことは多かったです。小学校に通うようになってから、特にそうなりました。友達と外で遊ぶ約束をしていたみたいです」
「金曜日もそうだったんでしょうか」
「あの日は違うと思います。そういう友達のところへは全部当たってみたんですけど、優菜と会う約束をしていた子はいませんでした」
「優菜ちゃんはアイスクリームを買ったようです。そのために出かけたということは考えられますか」
奈津子は首を傾げた。
「アイスクリームなら冷蔵庫にあるんです。だから、それだけのために出ていったとは思えません」
加賀は頷いた。
「優菜ちゃんは携帯電話を持っていましたか」
奈津子はかぶりを振った。
「いくら何でもまだ早すぎると思って……。でも、こんなことになるんなら、持たせておけばよかった」眼鏡の奥の目が潤《うる》み始めた。
「携帯電話を持っていれば安全というわけでもないです。かえって危険という声もあります」加賀が慰めるようにいった。「お友達で待っている子はいるんですか」
「何人かいるようです」
いずれも防犯が目的だろう、と松宮は横で聞いていて推察した。最近では居場所を確認できるGPS機能のついているものもある。ただし加賀がいったように、そのせいで逆に犯罪に巻き込まれるケースもないわけではない。
「優菜ちゃんの部屋というのはあるんですか」加賀が訊いた。
「ありますけど」
「見せていただいてもいいですか」
奈津子は夫のほうを向き、「いいわよね」と確認した。
「見ていただこう」そういって春日井は立ち上がった。
優菜の部屋は四畳半ほどの洋室だった。窓際に勉強机があり、壁に寄せてベッドを置いてある。机もベッドも真新しかった。
目をひくのは、ずらりと棚に並べられたフィギュアだった。それらは、ある人気アニメのキャラクターだった。様々な衣装をつけたフィギュアが売り出されているということは松宮も知っていた。
「スパプリのファンだったんですね」松宮はいった。
「そうなんです。以前から大好きで……」奈津子は涙声になっていた。
「スパプリ?」加賀が不思議そうな顔をした。
「このキャラクターだよ。『スーパープリンセス』というんだ」フィギュアの一つを松宮は指差した。
「テレビの横に並んでいたDVDもそうかな」
「そうです。以前は毎日のように見ていました」奈津子が答えた。「フィギュアを集めるのも好きで、よくねだられました」
加賀は勉強机に近づいた。奇麗に整頓されている。小学校の名札が載っていた。登校時、服につけるのだろう。外出する時に外したらしい。
名札を見ていた加賀が、「これは?」といって振り返った。
「小学校の名札です」奈津子が答えた。
「そうではなく、裏にかいてるものです。電話番号やアドレスのようですが」
加賀は名札を裏返して差し出した。松宮は横から覗き込んだ。たしかにサインペンのようなもので携帯電話の番号やメールアドレスらしきものが書き込まれている。
「これは私たちのケータイの番号とアドレスです」春日井が答えた。
「御夫婦とも、携帯電話をお持ちなんですね」
「そうです。優菜がいつでも連絡を取れるよう、名札の裏に書き込んでおいたんです」
「アドレスが三つありますね」
「二つはケータイのアドレスで、ひとつはパソコンのメールアドレスです」
加賀は納得したように頷き、名札の裏を見つめていたが、不意に何か思いついたように顔を上げた。
「パソコンはどちらに?」
「私たちの寝室にありますが」
「優菜ちゃんが使うことはありますか」
「一緒にインターネットをすることはあります」
「一人で使うことは?」
「それはないと思います。──ないよなあ?」春日井は妻に確認をとった。
「見たことありません」奈津子も同意した。
「御主人が最後にパソコンを使ったのはいつですか」
「昨日の夜です。メールを確認しただけですけど」
「何か不審な点はありませんでしたか」
「不審というと?」
「見慣れないメールを受信していたとかです」
「なかったと思います。あのう、パソコンのメールがどうかしたんですか」
「いえ」加賀は手を振った。「まだ何ともいえません。ただ、もしかしたらパソコンを調べる必要があるかもしれません。その場合、お預かりしてもかまいませんか」
「事件解決に役立つなら、もちろんかまいませんが……」春日井は釈然としない様子だ。
「理由については、その時に御説明します」加賀は腕時計を見た。「長々と失礼いたしました。大変参考になりました」
春日井夫妻も会釈を返してきた。しかし二人の顔には、悲しみとは別に戸惑いの色も滲んでいた。
「小林さんに連絡してくれ」マンションを出てから加賀はいった。「鑑識に春日井さんのパソコンを調べてもらうんだ」
「被害者がパソコンを使って犯人と連絡を取り合ったというのかい?」
「その可能性はある」
「だけど両親の話では、被害者が一人でパソコンを使うことはないということだった」
すると加賀は肩をすくめ、ゆらゆらと頭を振った。
「親の話なんかは当てにならない。子供というのは、親が考えているよりもはるかに成長しているものなんだ。密かな楽しみを見つけた時は、特にそうだ。見よう見まねでメールを操《あやつ》るようになったり、その痕跡が残らないように消去するなんてことは、ゲーム世代の子供にとってはどうってことない」
加賀の言葉には松宮も首肯《しゅこう》せざるをえない。昨今の少年を取り巻く犯罪を見れば、明らかだった。
松宮は携帯電話を取り出した。小林にかけようとしたが、その前に着信音が鳴った。
「松宮です」
「小林だ」
「今、かけようと思っていたところです」
松宮は加賀から聞いた話を主任に伝えた。
「わかった。そういうことなら、今すぐに鑑識を向かわせよう」
「自分たちはここに残っていたほうがいいですか」松宮は訊いた。
「いや、おまえたちにはこれから行ってもらいたいところがある」
「どこですか」
「前原昭夫のところだ」
「何かわかったんですか」
「そうじゃない。向こうから連絡してきたんだ」
「前原が?」携帯電話を握りしめたまま、松宮は加賀の顔を見た。
「銀杏公園の事件について話したいことがあるので、今すぐ来てほしい──前原昭夫はそういってきたんだ」