高崎の知り合いだという二人組の客を見送った直後、田上昇一がいきなり現れたので、聡美はぎくりとした。できれば気づかないふりをしてエレベータに乗りたいところだったが、生憎《あいにく》田上は彼女の真正面に現れたのだった。
「聡美ちゃん……」と彼は弱々しい声で呼びかけてきた。
「あんた……どうしてこんなところに来たのよ」
「だって、電話しても留守電のままだし、会社でもなかなか会うチャンスがないから」
「あたしがここにいること、なんで知ってるの」
「それは……前に一度……」
「尾行《つけ》たわけ?」
田上は小さく頷いた。信じられない、と聡美は横を向いた。
「あのさ、これを渡したくて」彼は小さな袋を差し出した。
「何、これ?」
「開けてみればわかるよ」
「そう。じゃ、後で見とく。用はそれだけね」聡美は周囲を気にしながら歩きかけた。こんなところを店の客に見られたら、何をいわれるかわからなかった。
「あ、ちょっと待って」だが田上は彼女を呼び止めた。
「まだ何かあるの?」
わざとげんなりした顔を作って振り向いたにもかかわらず、彼は馴れ馴れしく歩み寄ってきて、小声でいった。
「あれ、うまくいったみたいだね」
「あれ?」聡美は眉をひそめた。「何のことをいってるの?」
「あれのことだよ。新聞で読んだよ」そういって田上はジーンズのポケットから紙切れを取り出し、聡美の顔の前で広げた。
それは新聞の切り抜き記事だった。『スーパー店主が浴室で変死』という見出しが聡美の目に入った。
「ちょっ、ちょっと、ちょっと待ってよ」
聡美は彼の手から新聞記事を奪い取ると、そのまま彼の背中を押して、そばの階段の陰に隠れた。
「冗談いわないでよ、あたし、こんなのと何の関係もないよ」彼女は記事を細かくちぎった。
「でも、あれを貸してくれっていったじゃないか。だから、僕がわざわざ君の部屋まで届けてあげたんだろ」
田上がいい終わる前から、聡美は首を振り始めていた。
「この間はあたしがどうかしてた。だからあんたに変なことをいわれて、あんなものにちょっと興味がわいたりしちゃったのよ。でもすぐに冷静になって、やっぱり馬鹿なことはしないでおこうと思い直したんだから」
「本当?」田上は目をきょろきょろ動かした。「僕はさっきの記事を読んで、聡美ちゃんがやったんだろうと思い込んでたんだけどな」
「違うわよ。あたしが殺したかった相手は、あんな人じゃないよ。それから、あれは、昨日宅配便であんたのところに送り返したから」
「それはわかってる。今日、受け取ったよ。でも聡美ちゃん、あれを箱から出したのは事実だろう? 梱包の仕方が少し違ってたし、中に入れてあった軍手の片方がなくなっているんだけどな」
「軍手?」聡美は、どきりとした。
「工場で使ってるやつだよ」
聡美は緊張した時の癖で、下唇を噛んでいた。だが何とか田上の前では平静を保とうとした。
「興味があったから、ちょっと箱から出してみただけよ。たぶんその時に軍手の片方が出ちゃったのね。だからあたしの部屋にあるはずだから、返してほしいなら送るけど」
「いや、そんなのはいいよ。軍手なんかどうだっていい。そうか、僕はてっきり、君があれを使ったんだと思い込んでた。現場が風呂場だってことや、胸の皮膚が腐ってたことなんか、僕が予想した通りのことだったから……」
「違うっていってるでしょ。しつこいよ」聡美は早口でいい放った。
田上は途端に気弱な表情になった。
「違うんならいいんだよ」その時、そばのエレベータが開いて、どこかの店のホステスと客が降りてきた。
「じゃ、あたし、忙しいから。もうこんなところへは来ないでよ」そういうと聡美は素早く乗り込み、『閉』のボタンを押した。
間もなく二枚のドアが、未練ありそうな田上の視線を遮《さえぎ》ってくれた。
聡美は胸を押さえた。動悸はなかなか静まらなかった。
田上昇一が、あの小さな新聞記事と聡美とを結びつけて考えたことは、彼女にとって誤算だった。いやそもそも、あれが新聞記事になったこと自体が計画外だった。
「これを使った殺人は、まだ世界でも例がない、だから絶対に他殺とはわからない」あれを貸してくれる時、田上はこう断言したのだ。たぶん心臓麻痺としか判断できないんじゃないか、ともいった。それで彼女は実行を決断したのだ。
単なる心臓麻痺なら新聞に載ることはなく、田上にしても、彼女が実行したかどうかを知ることはできない。それならば後から、結局あれは使わなかったといい通せば、田上に弱みを握られることもない――これが聡美の考えだった。
彼女は何とか気をとりなおそうとした。多少危ない面もあったが、どうにか田上をごまかすことはできたようだった。彼にしても、あれを使って人殺しをしたことはなさそうだから、死体がどんなふうになるのか、正確には知らないはずだ。
こんなところで躓《つまず》けない、と彼女は思った。勝負はこれからなのだ。
高崎邦夫を殺した時のことを、彼女は思い出した。不思議なことだが、今も全く恐ろしさはなく、後悔もしていなかった。うまくいってよかったという安堵感だけが彼女の心を支配している。
浴槽に身体を沈めていた高崎は、彼女があれを持って浴室に入っていっても、殆ど怪しまなかった。お風呂で使う健康器具よ、と事前に見せてあったからだ。だから彼女があれを高崎の胸に近づけた時でさえ、数秒後に自分の心臓が停止することなど想像もしなかったに違いない。その証拠に彼は最後まで、にやにや笑っていたのだ。
あんなに楽な殺人は、たぶんほかにはないだろうなと彼女は思った。田上は本当にいいものを貸してくれた――。
エレベータを降りてから、聡美は自分が紙袋を持っていることに気づいた。田上から貰ったものだった。店に入る前に彼女は袋の中を覗いた。そして顔をしかめた。
中に入っていたのは、手製のブローチだった。