藤川雄一の部屋には本棚が二つあった。どちらもスチール製で、草薙の背丈ほどの高さがあった。そこにびっしりと専門書や科学雑誌が並べられていた。大学時代に使っていたと思われる本が殆どだが、高校時代の参考書や教科書まで残っているのには、草薙も驚かされた。大学の受験勉強用の問題集まである。奇麗に整理して並べてあるところを見ると、捨てそびれてこんなふうになってしまったのではなく、自分の勉強の歴史を残しておこうという意図から、わざと捨てずに置いてあるのだろう。
世の中には変わった人種もいるのだなあと、草薙は改めて思った。彼は大学の合格発表を見た翌日に、受験関連の書籍をすべて庭で焼いたという前科を持っていた。
「特に見当たりませんねえ」後輩の根岸刑事が、草薙の後ろでいった。彼は藤川の机の引き出しを調べていた。
「つまり再就職のあてはなかったということか」草薙は床の上に胡座《あぐら》をかき、本棚を見上げた。二人が探しているのは、会社のパンフレットや再就職者向けの雑誌だった。
ここで死体が見つかってから二日が経過している。今日の昼間、草薙は根岸と共に、二つの場所へ聞き込みに出かけた。一つ目はニシナ・エンジニアリングの川崎工場だった。そこが七月までの藤川の勤務地だ。
「突然辞めたいといってきたんですよ。相談も何もありません。いつの間に準備したのか、当社所定の退職願を持ってきて、『課長、判子を押してください』と、こうですよ」丸顔の課長は、やや唇を尖《とが》らせていった。「理由ですか? それはまあ本人にいわせると、自分には今の仕事は向いていない、ということらしいです。冗談じゃないって感じですよ。誰だって、やりたい仕事につけるわけじゃないんですからね。彼の仕事は設計です。ビルやなんかの空調設備のですよ。この四月に社内で大幅な入れ替えがありまして、そういうふうになったんです。彼の前の職場ですか。プラント開発というところですけど、基本的には仕事の内容は大して変わらなかったはずです。とにかく、我儘《わがまま》なんですよ。だから私も頭に来ちゃいましてね、そんなに辞めたいなら勝手にしろといってやったんです」
藤川と一番親しかったという同僚の話も、似たようなものだった。
「最初から、この会社のこと自体、あまり気に入ってなかったみたいでした。四月に職場が変わってから、特にそれが顕著になったようですね。やる気のないのが見え見えでしたから。どうしてかはわかりません」
草薙たちが次に会った相手は、帝都大学の横森教授だった。研究会のために新宿のホテルに出てきているということだったので、中にあるラウンジで会った。
「たしかに、藤川君にニシナ・エンジニアリングを勧めたのは私です」小柄で頭の禿げた教授は、少し甲高い声でいった。「しかし、強力に勧めたわけではありません。彼が卒業研究のテーマとして選んだ熱交換システムの研究に近い仕事が、あの会社ならできると助言しただけです」妙な疑いをかけられるのは心外だという感じで、教授は少し胸を張って見せた。
「先月の半ばに、藤川さんはおたくの研究室を訪ねてきたそうですが、その時はどういう話をされましたか」草薙は訊いた。
「大した話はしていません。せっかく入れてもらった会社を辞めてしまってすみません、というようなことを彼はいってました。そんなことはいいから、次の就職先を早く見つけなさいといっておきました」
「それだけですか」
「それだけです。いけませんか」横森は、明らかに気分を害していた。
最後に草薙は、藤川が駐車場の写真を撮っていたことや、横森の車を探していたことなどを話し、何か心当たりはないかと尋ねた。
心当たりは全くない、わけがわからない、というのが小柄な教授の答えだった。
これらの聞き込みの後、草薙たちは再び藤川の部屋にやってきたのだった。彼の退社の理由や、会社を辞めて何をやろうとしていたのかを探るためだった。
だがそのための手がかりは見つからなかった。
草薙はため息をつき、立ち上がった。そしてトイレに入り、小便をした。ユニットバスの上部に洗濯ロープが張られ、海水パンツが干されている。泳ぐことなんてあったのかなと、ぼんやり思った。
現場検証から、犯人は顔見知りだろうと考えられている。室内に争った形跡はなく、藤川は背後から後頭部を殴られている。おそらく油断していたのだろうというのが、大方の意見だった。凶器は現場に転がっていた四キログラムの鉄アレイで、藤川の所持品であることは確認済みだ。つまり犯人は、何らかの理由で、衝動的に犯行に及んだものと推察できる。
しかし犯行は衝動的でも、後の処置に関しては犯人はなかなかに冷静だった。あちこちの指紋が拭き取られていたし、髪の毛が落ちたことをおそれたか、床も掃除されていた。そして死体の発見がなるべく遅くなるよう、腐敗防止のためにエアコンまで利かせていった。それが結果的に死体発見を早めることになってしまったのだから、皮肉ではあるが。
小便を終え、手を洗っている時だった。足元に小さな紙片が落ちているのが見えた。草薙は腰を屈《かが》めてそれを拾った。喫茶店のレシートだと知り、彼はがっかりした。事件解決には結びつきそうにないと思ったからだ。日付も、事件よりずいぶん前のものだった。
だが洗面台の上に置こうとし、彼は手を止めた。そのレシートに印刷してある喫茶店の住所が引っかかったのだ。
湘南海岸の近くだった。草薙は親戚がいる関係で、あのあたりの地名に詳しかった。
そして日付は――。
間違いなかった。あの爆発事件の起きた日だった。