屋上には男がひとり、胸きよう壁へきにもたれて修善寺の町をながめていた。連太郎は屋上へのぼってくると、足をとめて、その男のうしろすがたに眼をとめたが、かれの期待していた人物ではなかったらしく、ちょっとかすかに舌打ちをする。
その舌打ちがきこえたのか、それとも足音に気がついたのか、胸壁にもたれていたひとは、ふとこちらをふりかえったが、それきり相手は身動きもせず、黒眼鏡のおくから、まじまじと連太郎の顔を視みつめている。
もうかなりの老人である。黒い洋服を身だしなみよく着て、純白のワイシャツに蝶ちようネクタイ。まっしろな髪の毛をくびのあたりでなでつけ、そのうえに、ちょこんと山高帽をのっけている。口くち髭ひげも顎あごひげもまっしろだが、よく手入れがいきとどいている。
老人の身だしなみのよいのは気持ちのいいものだが、ただ気になるのは黒眼鏡である。
しかも、その黒眼鏡のおくから、じろじろと視つめられて、連太郎はなんとなく、からだがこわばる感じであった。
「エヘン」 連太郎が咳せき払ばらいする。
老人はそれに気がついたのか、ちょっと狼ろう狽ばいのいろをうかべ、口のなかで何やらもぐもぐいいながら、胸壁のそばをはなれた。かなり腰がまがっている。
老人はステッキをついて、連太郎のそばをとおりすぎ、階段のほうへいきかけたが、そのとき、何思ったのか連太郎が、「あっ!」 と、かすかな叫び声をもらしたので、老人はギクッとしたようにふりかえった。
「なにかいったのかね。君……」「いえ、あの、な、なんでもありません」 黒眼鏡のおくで、老人の眼が異様にひかるのを見て、連太郎はあわてて口ごもった。
老人はジロジロと、連太郎のすがたを見上げ、見下ろしていたが、何思ったのか、急に顔をしかめて、くるりと向こうを向くと、逃げるようにコトコトと、ステッキをついて、階段をおりていった。
連太郎は茫ぼう然ぜんたる眼まな差ざしである。世にも不思議なものを、見付けたという眼付きであった。
「変装してるんだ。あの老人は……」 連太郎は口のうちで呟つぶやいている。自分自身にいいきかせるように。……「かずらと……そしてあのひげも、ひょっとすると、つけひげかも知れぬ」 連太郎はふかい思いにしずんでいる。何んとなく不安な思いに、胸がさわぐふぜいである。
「とにかく気をつけなければ……まさかおれをつけて来たんじゃあるまいが……」「おいおい、謙ちゃん、何をぼんやり考えこんでいるんだい」 ポンと背中をたたかれて、連太郎ははじかれたようにうしろをふりかえった。
「ああ、君か、三さぶ」 背中をたたいたのは、蔦代や文彦といっしょに、ここまで智子をむかえに来た、遊佐三郎であった。
遊佐は急に意地悪い眼付きになって、「止してくれ、三ぶなどと……あまりなれなれしい口は利きいてもらいたくないんだ」「あっはっは、そうか、よしよし」 連太郎は駄々っ児をあやすように、ホロ苦く笑うと、「それなら君もおれのことを、謙ちゃんなどと呼ばんほうがよかろう。ここじゃおれは、日比野謙太郎じゃねえんだからな」「そうそう、多門連太郎てえんだってな。うっふっふ、どっからそんな名前をひろって来たんだい」 連太郎は急にけわしい眼付きになって、「おい、遊佐君、そんなことはどうでもいい。それよりどういう話があるんだ。一時ジャストに、屋上へ来いというから、おれはこうしてやって来たんだ」 遊佐はあたりを見廻して、「あっちへいこう。ぼくは君なんかと、話をしているところを、だれにも見られたくないんだ」 遊佐はさきに立ってあるき出した。
ホテル松籟荘には、建物の正面に大きな時計台がそびえている。その時計台は、この屋上の一部についているのである。
遊佐はさきに立って、コンクリートの階段を五段のぼった。そのうえは十畳じきばかりの台地になっていて、そこにコンクリートでかためた時計室がたっており、その背後には青くぬった、観かん音のんびらきの鉄の扉がついていたが、その扉は少しひらいていた。
遊佐はそのすきまに首をつっこんで、なかを覗のぞいていたが、やがてうしろをふりかえると、「いいあんばいに、誰もいないようだ。謙ちゃん……じゃなかった、多門君、君もこっちへ来たまえ」 と、辛かろうじてからだが通るくらい扉をひらくと、そこからなかへすべりこむ。連太郎もそれにつづいてなかへ入ったが、ひとめ室内の様子を見ると、思わず大きく眼を見張った。
稀代のドン?ファン 部屋の広さほ四畳半くらいだろう。正面にはほとんど壁いっぱいに、真しん鍮ちゆう色いろの金属板が貼はってあって、その中央に、これまた真鍮色にぴかぴか光る、大きな振り子がユラリユラリと左右にゆれている。そして、その振り子の左側に、直径一尺五寸くらいの歯車が、二、三枚かみあっているのである。
つまり、そこは振り子時計の内部にあたるわけだが、ただ、ふつうの振り子時計とちがっているのは、正面の金属板よりすこしてまえに、直径三尺ばかりの、金属製の円板が二枚、床と天井のほぼなかほどにささえられており、そこからかまきりの脚のようにながい柄をもった、金属製の槌つちが四本出ている。そして、その槌の頭は、床から二尺ほどの高さのところを、左右に走っている、四本の銀色の棒のうえに、それぞれやすんでいるのである。
「いったい、こりゃアなんだ」 連太郎はあきれたようにあたりを見み廻まわす。遊佐はいくらか得意そうに、「なんだといって、時計のからくりじゃないか」「時計はわかっているが、あのかまきりの脚みたいな長い柄をもった、四本の槌はなんだ」「ああ、あれ、……あれはチャイム」「チャイム……?」「そう、字引きをひいてみたまえ、チャイムとは諧音をなす一組の鐘なり、と書いてあらあ。時間がくると四本の槌が、かまきりの脚みたいに頭をもたげて、あの四本の銀色の棒をたたいて時刻をつげるのさ」