連太郎はにがにがしげに眉まゆをひそめて、吐き出すように、「それをいうなら、こっちにだっていいたいことがあるぜ。さっき食堂にいた年とし増まや子供、あれはいったいどういうのだ」「あれアなんでもねえさ。識しり合あいの二号とその餓が鬼きさ。おい、いやだぜ、なんぼなんでもあんなうば桜と……」「あっはっは、まさかそんなことは思やアしないさ。あの婦人は君の趣味とはまるで反対だからな。おれのいうのは君の態度さ。キャバレー赤い梟レツド?アウルであの娘こを相手にしてるときとは、まるでひとがちがってるようだ。君たち斜陽族というやつは、ああもうまく猫がかぶれるものなのかねえ」 遊佐三郎の陰険らしい瞳のなかに、蒼あお白じろいいかりの焰ほのおがもえあがる。しかし、かれはすぐにそれをもみ消すと、狡こう猾かつそうな猫ねこ撫なで声になって、「ねえ、謙ちゃん、じゃなかった、多門君、ぼくの話というのはそのことなんだがねえ」「そのことって……?」 連太郎はわざとそらとぼけているのである。遊佐はちょっと唇をかんだが、すぐに思いなおしたように、「まあ、お聞きよ、謙、……いや、多門君、君はいつまでここに滞在するのか知らないけれど、これからさき、ぼくの身辺にどんなことが起こるとしても、いっさい、見て見ぬふりをしていてもらいたいんだ。いや、それよりも遊佐三郎なんて男、全然、知らぬというふうにふるまってもらいたいんだ」「つまり、赤い梟での君の行状がわかっては、まずいことがあるんだね」「うん、ま、そうだ」「いったい、君の身辺にどんなことが起こるというのか。ああ、そうか、遊佐君、君はここで見合いをしようというのじゃないのかね」 遊佐の頰ほおがちょっと強こわ張ばる。連太郎はしぶい微笑をうかべて、「遊佐君、そのことならば安心したまえ。そういう種類の他人の私事には、ぼくはちょっとも興味がない」「きっとか」「きっとだ。もっとも君のような男と見合いをしなければならぬお嬢さんを、気の毒だとは思うが、それはぼくの知ったことじゃない」 遊佐の瞳に、またさっと蒼白いいかりの焰がもえあがったが、すぐそれをもみ消すと、狡猾らしく唇をねじまげて、「まあ、いいさ、なんとでもいうがいい。しかし、君がその約束を守ってくれるなら、ぼくのほうでも、君のことはいっさい見て見ぬふりをしていてやろうよ」 連太郎は皮肉な微笑をうかべて、「なるほど、これは一種の取り引きだね」「そう、取り引きだ。何か異存があるかい」 連太郎はちょっと考えて、「いや、異存はない」 遊佐はほっとしたように、「そうか、それで安心した。じゃ、手をうとうよ」「うん」 連太郎はなぜか煮えきらぬ返事をして、ちょっと考えていたが、やがてさぐるような視線を相手にむけると、「それにしても、遊佐君、いったいどうしたというのか。ひどく自信がないじゃないか。
こんな贅ぜい沢たくなホテルで見合いをしようというからには、相手は相当大家のお嬢さんなんだろ、君くらいの腕があったら、多少赤い梟での御乱行が暴露しても相手を籠ろう絡らくするくらいのことは出来そうなものじゃないか」 遊佐の顔がちょっと強張った。しかし、すぐに唇をねじまげて、狡ずるそうに笑うと、「そりゃアそうさ。候補者がおれひとりの場合だったらね」「それじゃ、競争者ライバルがあるというのか」「そう、しかもふたりも。だからぼくはあくまでも品行方正な青年紳士でなければならないんだ」「相手の娘というのは美人かい」「どうだかな。写真をみるとちょっと小こ綺ぎ麗れいだが、そんなことあてになるもんか。どうせ田舎いなか者だから。……しかし、ぼくは娘なんかどうでもいいんだ。娘についているバックがほしいんだ。ぼくは……ぼくもぼくの一家も、もうすっかりいきづまっているんだ。だから、相手がどんなひどい容貌であろうと、ぼくはどうしても結婚しなきゃならないんだ」「田舎者っていったいどこの娘さんだい」「なあに、伊い豆ずの南方にある離れ小島の娘さ」「な、な、なんだって!」 連太郎の瞳めが、とつぜん、火のようにもえあがった。そのとき、かれの頭にさっとひらめいたのは、あの奇怪な手紙の一節である。
……そこに数日滞在するならば、世にも美しき佳人の、南方より来るにめぐりあうであろう。
その佳人こそは君が未来の妻である。但ただし、心せよ、君には多くの競争者のあることを。……「おい、そ、それじゃその娘というのは、南方より来るというんだな」「ど、どうしたんだ、謙ちゃん」 相手の権幕におそれをなして、遊佐は一歩後退する。連太郎はそのうえにおっかぶさるようにして、「そして、多くの競争者があると……」「け、謙ちゃん、いや、多門君……」 遊佐はまた一歩後退する。連太郎はさらにそのうえにのしかかつて、「そして、その娘はいったいいつ来るんだ。おい、いえ、その娘はいつこのホテルへやってくるんだ」 連太郎は猿えん臂ぴをのばして遊佐の肩をつかんだ。遊佐が痛そうに悲鳴をあげた。
「おい、いつ来るんだ、その娘は……」 連太郎にゆすぶられて、遊佐の首が、首振り人形みたいに、ガクンガクンとゆれる。
「今日、夕方、着くはずなんだ。さっき、下田から、電話がかかって来て……あっちで、昼飯を食って、休息して、それから、出発するから、こっちへ、着くのは、四時ごろに、なるって、……おい、はなして、くれ。く、苦しい」 連太郎が手をはなすと、遊佐はよろよろと壁にもたれかかって、はあはあ息をはずませながら、「ひどい、ことを、しゃアがる。気ちがい。いったい、どうしたと、いうんだ」 ハンケチを出して、額の汗をふいていたが、急にどきっとしたように瞳をすぼめる。玄関へ自動車のつく音がきこえたからである。遊佐はあわてて腕時計に眼をおとす。時刻は一時三十分。
「まだ、着くはずはないが……」 それでも遊佐は気になるのか、時計室をとび出すと、台地をまわって、表の胸壁のほうへいくと、そこから下をのぞいていたが、「や、しまった、畜生!」 いかにも、いまいましげな叫び声をあげて、あたふたとドアのまえへかえってくる。そして、そのままコンクリートの階段をとびおりようとするのを、連太郎がするどくうしろから呼びとめた。
「おい、どうしたんだ。娘が来たのか」「娘じゃねえんだ。競争者がやってきたんだ。三宅と駒井が、大道寺さんをひっぱって来やアがった。畜生、文彦の餓が鬼き、月足らずのチンピラめ、あいつが報しらせやアがったにちがいねえ。おぼえてやがれ!」 遊佐は酔っぱらったようなあしどりで、あたふたと、屋上からおりていく。
そのあとしばらく連太郎は、ふかい物思いに沈んだようすで、時計室のなかにたたずんでいたが、やがて首をうなだれたまま、コツコツとコンクリートの階段をおりていく。
そして、その足音が屋上から、消えていったころである。正面に貼はってある、あの金属板のむこうから、ふと、かすかな物音がきこえた。と、思うと、やがて片手と片脚が、そして、それにつづいてものの怪けのように、ほのじろい顔が現われた。
文彦だった。文彦の顔は異様にねじれ、瞳が嫌けん悪おと憎しみにふるえている。