そんな風だから、舞台に出て来ても、これが百面相役者ということは、想像もつかぬ。ただ番附を見て、僅かにあれだなと悟る位のものだ。あんまり不思議なので、僕はそっとRに聞いて見た。
「あれは本当に同一人なのでしょうか。若しや、百面相役者というのは、一人ではなくて、大勢の替玉を引っくるめての名称で、それが代るがわる現れているのではないでしょうか」
実際僕はそう思ったものだ。
「いやそうではない。よく注意してあの声を聞いてごらん。声の方は変装のようには行かぬかして、巧みに変えてはいるが、皆同一音調だよ。あんなに音調の似た人間が幾人もあるはずはないよ」
なる程、そう聞けば、どうやら同一人物らしくもあった。
「僕にしたって、何も知らずにこれを見たら、きっとそんな不審を起したに相違ない」Rが説明した。
「ところが、僕にはちゃんと予備知識があるんだ。というのは、この芝居が蓋を開ける前にね、百面相役者の××が、僕の新聞社を訪問したのだよ。そして、実際僕等の面前で、あの変装をやって見せたのだ。外の連中は、そんなことに余り興味がなさそうだったけれど、僕は実に驚嘆した。世の中には、こんな不思議な術もあるものかと思ってね。その時の××の気焔がまた、なかなか聞きものだったよ。まず欧米における変装術の歴史を述べ、現在それが如何に完成の域に達しているかを紹介し、だが、我々日本人には、皮膚や頭髪の工合で、そのまま真ねられない点が多いので、それについて如何に苦心したか、そして、結局、どれ程巧にそれをものにしたか、という様なことを実に雄弁にしゃべるのだ。団十郎だろうが菊五郎だろうが、日本広しといえどもおれにまさる役者はないという鼻息だ。何でもこの町を振り出しに、近く東京の檜舞台を踏んで、その妙技を天下に紹介するということだった。(彼はこの町の産なのだよ)その意気や愛すべしだが、可哀相に、先生芸というものを、とんだはき違えで解釈している。何よりも巧に化けることが、俳優の第一条件だと信じ切っている。そして、かくの如く化ける事の上手な自分は、いうまでもなく天下一の名優だと心得ている。田舎から生れる芸にはよくこの類のがあるものだね。近くでいえば、熱田の神楽獅子などがそれだよ。それはそれとして、存在するだけの値うちはあるのだけれど……」
このRのくわしいちゅう釈を聞いてから、舞台を見ると、そこにはまた一層の味わいがあった。そして見れば見る程、益々深く百面相役者の妙技に感じた。こんな男が若し本当の泥坊になったら、きっと、永久に警察の目をのがれることが出来るだろうとさえ思われた。
やがて、芝居は型の如くクライマックスに達し、カタストロフィに落ちて、惜しい大団円を結んだ。時間のたつのを忘れて、舞台に引きつけられていた僕は、最後の幕がおり切って終うと、思わずハッと深いため息をついたことだ。