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猫属の舌(2)

时间: 2023-10-07    进入日语论坛
核心提示: 男は、グラスも、ウィスキーの瓶びんも、テーブルの上に倒してしまって、恐ろしい眼をすえて、皿のビーフステーキを、めちゃめ
(单词翻译:双击或拖选)
 男は、グラスも、ウィスキーのびんも、テーブルの上に倒してしまって、恐ろしい眼をすえて、皿のビーフステーキを、めちゃめちゃに切りきざんでいたが、神谷の声を聞くと、ヒョイと顔を上げてニヤニヤと笑った。
「ええ、用事があるんです。用事というよりはお願いなんです。僕、あの子が好きになっちゃったんです。会わせていただけませんか」
 案外おとなしく言われたので返事に困っていると、
「会わせてください。でないと、僕、自制力を失ってしまうかもしれません。僕を怒らしちゃいけないのです。ごらんなさい。僕の口を、僕の口を」
 見ると、彼は歯ぎしりをんでいるのだ。奥歯をギリギリいわせて憤怒ふんぬをかみ殺しているのだ。そして、じっとこちらを見つめている眼が、大きく大きくひらいて、また異様な燐光りんこうが燃えはじめた。
「だって君、それは無理じゃないか。あの子は僕の馴染なじみなんだぜ。それを横取りしようなんて」
 神谷は虚勢を張った。
「いけませんか。いけませんか」
 男はせき込んで尋ねる。
「ええ、困りますね」
「ああ、僕を救ってください。僕は自制力を失いそうです。もし自制力を失ったら……」
 彼は歯を気味わるく鳴らしながら、何を思ったのか、拳骨げんこつを作っていきなりテーブルをなぐりつけた。幾度も幾度もなぐりつけているうちに、指の関節が破れて、血が流れはじめた。そのテーブルにしたたった血の上を、無残にもさらになぐりつづける。
 彼は彼自身の心と戦っているのだ。歯を食いしばったり、指を傷つけたりして、何かしら兇暴きょうぼうな衝動をおさえつけようとしているのだ。だが、それにもかかわらず、ともすれば、こみ上げてくるけだもののような怒りが、彼の全身をワナワナとふるわせ、両手の五本の指が何かにつかみかかるように、醜くキューッと曲がってくるのだ。そして、眼は一そう青く燃えたち、歯はガチガチと鳴る。
 神谷はそれを見ていると、我慢にも虚勢が張っていられなくなった。酔いもさめきって、心の底まで冷えわたるような、なんともえたいの知れぬ恐怖に、震えあがった。
「弘ちゃん、ちょっとここへ」
 思わず知らず呼んでしまった。
「なによ」
 すぐうしろで、弘子の声が答えて、彼女は、やけな調子で、ボックスへのめり込むと、男の隣へ腰かけた。
「ああ、君、君は弘ちゃんていうの?」
 男の相好が、実に突然に、ガラリと変ってしまった。彼は弘子の肩を抱いて、ニヤニヤしながら、おびでもするように話しかけるのだ。
「僕ね、恩田っていうんだ。君に、贈り物がしたいのだがね、うけてくれるかい」
 彼は前に見はっている神谷の方を、気まずそうに盗み見ながら、大きな口をペタペタいわせてささやいた。そうだ、この恩田という怪人物の口は、実に大きかった。もし思い切ってひらいたら、耳まで裂けて、あの骨ばった顔じゅうが、口になってしまうのではないかと疑われた。くちびるはそんなに厚ぼったくなかったが、非常に赤くて、絶えずヌメヌメとれているように見えた。
 恩田は自分の指から奇妙な形の指環ゆびわを抜きとり、辞退する弘子の手を無理にとって、その指にはめてしまった。
「美しい弘ちゃんにはじめて会った記念です。大切にしてください」
 彼は指環をはめたついでに、弘子の手をギュッと握りしめながら、実にひとりよがりなわがままな調子で言うのだ。
 神谷はムッとしたが、恩田のさいぜんの形相ぎょうそうを思い出すと、恐ろしくて手出しができなかった。狂人の痴態ちたいとして見のがすほかはなかった。
 狂人は、ころがっていたウィスキーのびんを取って、こぼれ残りの酒をグラスにつぐと、
「弘ちゃんのために、プロージット!」
 と、叫んで、それをグッと飲みほして、長い舌をペロペロとめまわした。異様に長いまっ赤な舌であった。だが彼の舌は、長いばかりではなかった。赤いばかりではなかった。そのほんとうの恐ろしさは、やがて、彼がビーフステーキを口に持っていった時に、ハッキリとわかった。
 それは決して、酔った神谷の幻覚ではなかった。弘ちゃんともう一人のウエートレスも、ちゃんとそれに気づいていて、あとでまっ青になって話し合ったことであった。
 恩田はフォークで、ポタポタと赤い血のしたたる、厚ぼったい牛肉の一片をつき刺すと、口をグワッとひらいて、赤い舌をヘラヘラと動かして、それをさもうまそうにたべたのだが、その時、敏捷びんしょうに動く舌の表面が、電燈の光を受けてまざまざとながめられた。
 ああ、あれが人間の舌であろうか。まっ赤な肉の表面に、針を植えたような一面のささくれ。それが、舌を動かすたびに、風に吹かれた草むらの感じで、サーッと波打って逆立さかだつのだ。決して人類の舌ではない。猫属の舌だ。神谷は猫を飼ったことがあるので、そういう舌の恐ろしさをよく知っていた。兇暴きょうぼうな肉食獣の舌、猫かとらか、でなければひょうの舌だ。
 巨大な両眼に燃える蛍光けいこうといい、黒ずんだ骨ばった顔といい、まっ赤な猫舌ねこじたといい、敏捷な身のこなしといい、黒い豹! そうだ、この男を見ていると、熱帯のジャングルにむ、あの孤独で兇暴な陰獣を、まざまざと連想しないではいられぬのだ。
 おれは果たして正気なのだろうか。この怪物は酔眼すいがんをまどわす幻影なのではあるまいか。それともおれは今、悪夢にうなされているのかしら。
 神谷は見ているのも恐ろしくなって、眼をそらそうとしたが、そらそうとすればするほど、かえって、眼に見えぬ糸で引き戻されるように、いつの間にか、相手のけだもののような口辺を凝視しているのであった。

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