男は、グラスも、ウィスキーの瓶も、テーブルの上に倒してしまって、恐ろしい眼をすえて、皿のビーフステーキを、めちゃめちゃに切りきざんでいたが、神谷の声を聞くと、ヒョイと顔を上げてニヤニヤと笑った。
「ええ、用事があるんです。用事というよりはお願いなんです。僕、あの子が好きになっちゃったんです。会わせていただけませんか」
案外おとなしく言われたので返事に困っていると、
「会わせてください。でないと、僕、自制力を失ってしまうかもしれません。僕を怒らしちゃいけないのです。ごらんなさい。僕の口を、僕の口を」
見ると、彼は歯ぎしりを噛んでいるのだ。奥歯をギリギリいわせて憤怒をかみ殺しているのだ。そして、じっとこちらを見つめている眼が、大きく大きくひらいて、また異様な燐光が燃えはじめた。
「だって君、それは無理じゃないか。あの子は僕の馴染なんだぜ。それを横取りしようなんて」
神谷は虚勢を張った。
「いけませんか。いけませんか」
男はせき込んで尋ねる。
「ええ、困りますね」
「ああ、僕を救ってください。僕は自制力を失いそうです。もし自制力を失ったら……」
彼は歯を気味わるく鳴らしながら、何を思ったのか、拳骨を作っていきなりテーブルをなぐりつけた。幾度も幾度もなぐりつけているうちに、指の関節が破れて、血が流れはじめた。そのテーブルにしたたった血の上を、無残にもさらになぐりつづける。
彼は彼自身の心と戦っているのだ。歯を食いしばったり、指を傷つけたりして、何かしら兇暴な衝動を抑えつけようとしているのだ。だが、それにもかかわらず、ともすれば、こみ上げてくるけだもののような怒りが、彼の全身をワナワナと震わせ、両手の五本の指が何かに掴みかかるように、醜くキューッと曲がってくるのだ。そして、眼は一そう青く燃えたち、歯はガチガチと鳴る。
神谷はそれを見ていると、我慢にも虚勢が張っていられなくなった。酔いもさめきって、心の底まで冷えわたるような、なんともえたいの知れぬ恐怖に、震えあがった。
「弘ちゃん、ちょっとここへ」
思わず知らず呼んでしまった。
「なによ」
すぐうしろで、弘子の声が答えて、彼女は、やけな調子で、ボックスへのめり込むと、男の隣へ腰かけた。
「ああ、君、君は弘ちゃんていうの?」
男の相好が、実に突然に、ガラリと変ってしまった。彼は弘子の肩を抱いて、ニヤニヤしながら、お詫びでもするように話しかけるのだ。
「僕ね、恩田っていうんだ。君に、贈り物がしたいのだがね、うけてくれるかい」
彼は前に見はっている神谷の方を、気まずそうに盗み見ながら、大きな口をペタペタいわせてささやいた。そうだ、この恩田という怪人物の口は、実に大きかった。もし思い切ってひらいたら、耳まで裂けて、あの骨ばった顔じゅうが、口になってしまうのではないかと疑われた。唇はそんなに厚ぼったくなかったが、非常に赤くて、絶えずヌメヌメと濡れているように見えた。
恩田は自分の指から奇妙な形の指環を抜きとり、辞退する弘子の手を無理にとって、その指にはめてしまった。
「美しい弘ちゃんにはじめて会った記念です。大切にしてください」
彼は指環をはめたついでに、弘子の手をギュッと握りしめながら、実に独りよがりなわがままな調子で言うのだ。
神谷はムッとしたが、恩田のさいぜんの形相を思い出すと、恐ろしくて手出しができなかった。狂人の痴態として見のがすほかはなかった。
狂人は、ころがっていたウィスキーの瓶を取って、こぼれ残りの酒をグラスにつぐと、
「弘ちゃんのために、プロージット!」
と、叫んで、それをグッと飲みほして、長い舌をペロペロと舐めまわした。異様に長いまっ赤な舌であった。だが彼の舌は、長いばかりではなかった。赤いばかりではなかった。そのほんとうの恐ろしさは、やがて、彼がビーフステーキを口に持っていった時に、ハッキリとわかった。
それは決して、酔った神谷の幻覚ではなかった。弘ちゃんともう一人のウエートレスも、ちゃんとそれに気づいていて、あとでまっ青になって話し合ったことであった。
恩田はフォークで、ポタポタと赤い血のしたたる、厚ぼったい牛肉の一片をつき刺すと、口をグワッとひらいて、赤い舌をヘラヘラと動かして、それをさもうまそうにたべたのだが、その時、敏捷に動く舌の表面が、電燈の光を受けてまざまざと眺められた。
ああ、あれが人間の舌であろうか。まっ赤な肉の表面に、針を植えたような一面のささくれ。それが、舌を動かすたびに、風に吹かれた草むらの感じで、サーッと波打って逆立つのだ。決して人類の舌ではない。猫属の舌だ。神谷は猫を飼ったことがあるので、そういう舌の恐ろしさをよく知っていた。兇暴な肉食獣の舌、猫か虎か、でなければ豹の舌だ。
巨大な両眼に燃える蛍光といい、黒ずんだ骨ばった顔といい、まっ赤な猫舌といい、敏捷な身のこなしといい、黒い豹! そうだ、この男を見ていると、熱帯のジャングルに棲む、あの孤独で兇暴な陰獣を、まざまざと連想しないではいられぬのだ。
おれは果たして正気なのだろうか。この怪物は酔眼をまどわす幻影なのではあるまいか。それともおれは今、悪夢にうなされているのかしら。
神谷は見ているのも恐ろしくなって、眼をそらそうとしたが、そらそうとすればするほど、かえって、眼に見えぬ糸で引き戻されるように、いつの間にか、相手のけだもののような口辺を凝視しているのであった。
「ええ、用事があるんです。用事というよりはお願いなんです。僕、あの子が好きになっちゃったんです。会わせていただけませんか」
案外おとなしく言われたので返事に困っていると、
「会わせてください。でないと、僕、自制力を失ってしまうかもしれません。僕を怒らしちゃいけないのです。ごらんなさい。僕の口を、僕の口を」
見ると、彼は歯ぎしりを噛んでいるのだ。奥歯をギリギリいわせて憤怒をかみ殺しているのだ。そして、じっとこちらを見つめている眼が、大きく大きくひらいて、また異様な燐光が燃えはじめた。
「だって君、それは無理じゃないか。あの子は僕の馴染なんだぜ。それを横取りしようなんて」
神谷は虚勢を張った。
「いけませんか。いけませんか」
男はせき込んで尋ねる。
「ええ、困りますね」
「ああ、僕を救ってください。僕は自制力を失いそうです。もし自制力を失ったら……」
彼は歯を気味わるく鳴らしながら、何を思ったのか、拳骨を作っていきなりテーブルをなぐりつけた。幾度も幾度もなぐりつけているうちに、指の関節が破れて、血が流れはじめた。そのテーブルにしたたった血の上を、無残にもさらになぐりつづける。
彼は彼自身の心と戦っているのだ。歯を食いしばったり、指を傷つけたりして、何かしら兇暴な衝動を抑えつけようとしているのだ。だが、それにもかかわらず、ともすれば、こみ上げてくるけだもののような怒りが、彼の全身をワナワナと震わせ、両手の五本の指が何かに掴みかかるように、醜くキューッと曲がってくるのだ。そして、眼は一そう青く燃えたち、歯はガチガチと鳴る。
神谷はそれを見ていると、我慢にも虚勢が張っていられなくなった。酔いもさめきって、心の底まで冷えわたるような、なんともえたいの知れぬ恐怖に、震えあがった。
「弘ちゃん、ちょっとここへ」
思わず知らず呼んでしまった。
「なによ」
すぐうしろで、弘子の声が答えて、彼女は、やけな調子で、ボックスへのめり込むと、男の隣へ腰かけた。
「ああ、君、君は弘ちゃんていうの?」
男の相好が、実に突然に、ガラリと変ってしまった。彼は弘子の肩を抱いて、ニヤニヤしながら、お詫びでもするように話しかけるのだ。
「僕ね、恩田っていうんだ。君に、贈り物がしたいのだがね、うけてくれるかい」
彼は前に見はっている神谷の方を、気まずそうに盗み見ながら、大きな口をペタペタいわせてささやいた。そうだ、この恩田という怪人物の口は、実に大きかった。もし思い切ってひらいたら、耳まで裂けて、あの骨ばった顔じゅうが、口になってしまうのではないかと疑われた。唇はそんなに厚ぼったくなかったが、非常に赤くて、絶えずヌメヌメと濡れているように見えた。
恩田は自分の指から奇妙な形の指環を抜きとり、辞退する弘子の手を無理にとって、その指にはめてしまった。
「美しい弘ちゃんにはじめて会った記念です。大切にしてください」
彼は指環をはめたついでに、弘子の手をギュッと握りしめながら、実に独りよがりなわがままな調子で言うのだ。
神谷はムッとしたが、恩田のさいぜんの形相を思い出すと、恐ろしくて手出しができなかった。狂人の痴態として見のがすほかはなかった。
狂人は、ころがっていたウィスキーの瓶を取って、こぼれ残りの酒をグラスにつぐと、
「弘ちゃんのために、プロージット!」
と、叫んで、それをグッと飲みほして、長い舌をペロペロと舐めまわした。異様に長いまっ赤な舌であった。だが彼の舌は、長いばかりではなかった。赤いばかりではなかった。そのほんとうの恐ろしさは、やがて、彼がビーフステーキを口に持っていった時に、ハッキリとわかった。
それは決して、酔った神谷の幻覚ではなかった。弘ちゃんともう一人のウエートレスも、ちゃんとそれに気づいていて、あとでまっ青になって話し合ったことであった。
恩田はフォークで、ポタポタと赤い血のしたたる、厚ぼったい牛肉の一片をつき刺すと、口をグワッとひらいて、赤い舌をヘラヘラと動かして、それをさもうまそうにたべたのだが、その時、敏捷に動く舌の表面が、電燈の光を受けてまざまざと眺められた。
ああ、あれが人間の舌であろうか。まっ赤な肉の表面に、針を植えたような一面のささくれ。それが、舌を動かすたびに、風に吹かれた草むらの感じで、サーッと波打って逆立つのだ。決して人類の舌ではない。猫属の舌だ。神谷は猫を飼ったことがあるので、そういう舌の恐ろしさをよく知っていた。兇暴な肉食獣の舌、猫か虎か、でなければ豹の舌だ。
巨大な両眼に燃える蛍光といい、黒ずんだ骨ばった顔といい、まっ赤な猫舌といい、敏捷な身のこなしといい、黒い豹! そうだ、この男を見ていると、熱帯のジャングルに棲む、あの孤独で兇暴な陰獣を、まざまざと連想しないではいられぬのだ。
おれは果たして正気なのだろうか。この怪物は酔眼をまどわす幻影なのではあるまいか。それともおれは今、悪夢にうなされているのかしら。
神谷は見ているのも恐ろしくなって、眼をそらそうとしたが、そらそうとすればするほど、かえって、眼に見えぬ糸で引き戻されるように、いつの間にか、相手のけだもののような口辺を凝視しているのであった。