猫と鼠
神谷は、まったく脱出の見込みがないとわかると、烈しい後悔にうたれて、闇の中にグッタリとうずくまってしまった。
早まったことをした。あせる前に、先ず自分の力を考えてみるべきであった。それに相手が老いぼれおやじと油断したのが間違いだった。あいつは、老いぼれどころか、おれをこの密室にとじこめた手際は、若者も及ばぬすばやさではないか。
だが、おれはこれから、いったいどうすればいいのだろう。
もしこの檻のような密室を破る力がないとすれば、ほかに手だてはありはしない。誰に知らせるすべもなく、このまま飢え死にするばかりではないか。
ああ、それにしても、弘子はどこにいるのだろう。おれが彼女を救い出そうとしたばっかりに、こんな目にあっているとも知らず、やっぱり同じ監禁の憂き目を見ていることであろうが、彼女の牢屋は、ハンカチをほうることができたほどだから、あの裏手の方の、どこか窓のある部屋に違いない。
だが、変だな、彼女がおれの姿を見るなり、足音を聞くなりして、あのハンカチを投げたのだとすると、そんな面倒な手数をかけないでも、ただ大声に救いを求めさえすれば目的を達したはずではないか。
猿ぐつわでもはめられているのかしら。いや、猿ぐつわをはめるほどなら、両手を縛っておくはずだ。縛られていて、あんな字を書くことはできやしない。
では彼女は、別に誰にという当てもなく、あの文つぶてを投げたのだろうか。そして、通りがかりに拾ってくれる人を待つつもりだったのかしら。どうもそう考えるのが一ばんほんとうらしいようだ。それにしても、うまいぐあいに、ちょうどおれの通りかかる時、あれを投げたものだな。いやいや、うまいぐあいではない。今になって思えば、かえってそれが悪かったのだ。恩田の家を知っているのは、おればかりだ、そのおれが「ミイラ取りがミイラになった」のでは、もう弘子を救い出す見込みはまったく絶えてしまったといってもいい。ああ、どうすればいいのだ。
神谷がそうして、闇の中で、ぐちっぽく考えこんでいた時、突然、「ウォーッ」と、けだものの唸り声が、今度は非常に近いところから聞こえてきた。どうやら、板壁のすぐ向こう側らしい。
やっぱり猛獣がいるのだ。ああ、そうだ。こんな檻のような密室があるのは、ここの家が猛獣を飼っているからに違いない。東京都内にだって、動物園でなくても、個人で猛獣を養っている富豪がいくらもある。ここにも、どんな恐ろしいけだものがいないとも限らぬのだ。
そこまで考えた時、あのギョッとする想像が彼を思わず立ち上がらせた。ああ、あの老いぼれめは、ひょっとしたら、その猛獣をここへ追い込むつもりではないのかしら。まさかそんなばかばかしいことが、いや、ばかばかしいといえば、この屋敷そのものがすでにばかばかしいのだ。あんな煉金術師の部屋が東京の郊外にあることだって、弘子やおれを監禁することだって、みんなありそうもないことばかりだ。そのありそうもないことが、現にこうして起こっているのだから、この先どんな気違いめいた変事が突発するか、知れたものではない。
暗闇が果てしもない妄想を産んで、今にも気が狂いそうであった。神谷は彼自身が檻の中の猛獣ででもあるように、部屋の中を、あちこちと歩きはじめた。
そうして歩いているうちに、ふと板壁に隙間があることを発見した。それを見ると、たとえその向こうにどんな恐ろしい猛獣が牙をむいていようとも、覗いてみないではいられなかった。
彼は中腰になって、隙間に眼を当てた。
ああ、夢ではないのか。そこには、果たして猛獣が……一匹の大きな豹がうずくまっていたではないか。
それはやっぱり頑丈な板壁の、まるで倉庫のような広い部屋であったが、一方の隅に本物の鉄の檻の一部分が見えて、その中に豹の上半身が横たわっているのだ。檻のそとは一面の土間で、板壁がひどく頑丈なのを見ると、時には豹を檻から出して、部屋の中を散歩させるのかもしれない。
気のせいか、俄かに耐らない野獣の臭気が鼻をついた。臭気ばかりではない。このいやにむし暑いのは、なんであろう。今までは昂奮のあまり、それとも感じなかったけれど、隙間に眼を当てていると、その暖かさは、隣の部屋から伝わってくるように思われる。それに、よく見れば、窓からの光線のほかに、かすかに赤い光が、チロチロと動いているように感じられる。ああ、わかった。ここからは見えぬけれど、寒さを嫌う豹のために、ストーブが焚いてあるのだ。さっき塀のそとから眺めた煙突の煙は、この部屋から立ち昇っているのに違いない。
彼は中腰に疲れると、眼をはなしてうずくまるのだが、しばらくすると、不安に耐えられなくなって、また隙間を覗く。そうして、うずくまったり覗いたりしながら、なんのまとまった思案もつかぬ間に、時間はドンドンたっていった。
やや一時間もたったころ、彼が疲れてうずくまっていた時、突如として、板壁の向こう側から、女の悲鳴が聞こえてきた。長くつづく、死にもの狂いの悲痛な叫びであった。
神谷はそれを聞くと、たちまちその恐ろしい意味を悟った。そして俄かに高鳴る心臓の鼓動を感じながら、ピョコンと立ち上がって、隙間に眼を当てた。
そこには、予期していたものが、いや予期以上に恐ろしいものがあった。
豹の檻の前の土間に、一人の若い女が、髪を振り乱し、服は裂けて、肌もあらわに、両手で何かを防ぐ恰好をして倒れている。ここからは見えぬ入口から、駈け込んできたのか、いや多分は、何者かにつき飛ばされて、われにもなくこの部屋へ倒れ込んだものであろう。
神谷は一と眼見て、それが探し求めていた弘子であることを悟った。ああ、彼女は猛獣の部屋に投げ込まれたのだ。やがては、あの豹の檻がひらかれるのであろう。そして、血に餓えた猛獣は、舌なめずりをして、彼女の上に這い寄ることであろう。
彼は声を立てる力もなく、ただ板壁にしがみついて、全身に脂汗を流していた。
だが、彼の想像は当たらなかった。弘子を襲うものは、豹ではなくて、むしろ豹よりも残酷な人間であることが、やがてわかった。彼女が両手を上げて防いでいたのは、その人間に対してであったのだ。
みるみる視界に現われてきた一人の男。恩田だ。息子の方の恩田だ。いつかの夜、草むらに二つの燐光を輝かせて、蛇のように這って行ったあの怪物だ。
見よ、彼はやっぱり両手をついて這っているではないか。この怪人にとっては、立って歩くよりも、けだもののように這う方が自然なのだ。人間ではない。あの弘子の方へ這い寄って行く無気味な身のこなし、あれが人間であろうか。獣類だ。獣類にしか見られぬ形だ。
怪物の両眼は、昼ながら、二つの青い燐光のように、爛々とかがやいている。彼がいかに昂奮しているかを語るものだ。ヌメヌメと濡れた唇は、息をするたびに、裂けるようにひらいて、まっ白な歯が気味わるく現われ、例の猫属のドス黒い舌が、歯と歯のあいだからチロチロと覗いている。
怪物は、ちょうど猫が鼠にたわむれる恰好で、脅える弘子の身辺に、あらゆる方角から、這い寄ってはパッと飛びすさり、今にも襲いかかろうとしては退きして、この残酷な遊戯を、さもさも楽しげに、できるだけ長引かそうとしているかに見えた。