蘭子の女中奉公
蘭子の家を出て、細い通りを半丁ほど行くと、賑やかな電車通りがある。神谷と、熊井と、蘭子の三人は、その大通りの人道を肩を並べて歩いていた。
「蘭子さん、あんた田舎娘になりませんか。いや、お手のもののメーク・アップでもって、ぽっと出の田舎娘に変装するんですよ。できるでしょう」
熊井青年は実に突飛なことを言い出した。
「そりゃできないこともないけれど、そうして、どうしようというの?」
蘭子は毎日の送り迎えで、この豪傑青年とは仲よしになっていた。
「まったくお誂え向きの話があるんです。実は僕の母がその本人から頼まれて、そういう田舎娘を探しているんですがね。なかなか思ったようなのがないのです。ちょっと風変りな奉公口なんですよ」
「まあ、あたしご奉公するの?」
「ええ、そうですよ。うまい考えでしょう。あんたがいま知り合いのところへ逃げたんじゃあ、結局、恩田に見つかってしまうにきまっていますよ。そこを裏をかいてですね、敵の思いも及ばない大飛躍をやるんです。田舎娘に化けて、まったく関係のない他人の家へ奉公しちゃうんです。ねえ、神谷さん、どうでしょうね、この考えは」
神谷はハタと膝を打ちたいほどに感心した。いかにもレビュー劇場の事務員らしい、奇想天外、突飛千万の考案であったが、それだけに、敵の眼をあざむくのには申し分がない。
「そいつは面白いね。なんぼなんでも、蘭子ちゃんが、女中奉公をしようとは気がつくまいからね……しかし、女中さんとなると、使い歩きをさせられるだろうが、そいつがちっと心配だね」
「いや、ところが、塀のそとへは一歩も出なくていいんです。その先方の家というのが、またひどく変っていましてね、ちょうどお誂え向きなんですよ。家のまわりには高いコンクリート塀をめぐらし、その上にビール瓶のかけらが針の山のように植えつけてあろうという実に厳重な構えで、主人は年がら年中一と間にとじこもったまま、一歩もそとへ出ないのです。その主人づきのまあ話し相手、小間使いといった役目なんですよ」
「まあ、妙なご主人ね。年寄りのかたなの?」
蘭子も、この奇妙な話につり込まれて、だんだん乗り気になっていた。
「ところが若いのです。蘭子さんと同い年ぐらいでしょう。いや、ご心配には及びません。その主人というのは娘さんですよ。しかも片輪者なんです。顔に何か不具な箇所があるとかで、いつも黒い覆面をかぶっていて、誰にも素顔を見せたことがないという、極端に内気なお嬢さんです。そんな生活をしているものだから、話し相手がほしいのですね。もっとも老人の執事かなんかが一緒にいるんだそうですが、老人ではお話し相手になりませんからね」
「お金持ちなんだね」
「そうですよ。ご存じかもしれませんが、高梨という高利貸の一人娘ですが、二、三年前に両親に死なれてしまって、今では一人ぼっちの可哀そうな片輪者なんです。お嫁入りはおろか、人に顔を見られるのもいやだといって、そういう孤独な生活をしているんだそうです。今もいうように、お父さんの商売柄、泥棒の用心にかけては、実に厳重にできている家ですから、蘭子さんの隠れがには持ってこいですよ。いくら人間豹でも、あの大きな鉄の門を破ったり、針の山みたいな塀を乗り越すことはできないでしょうからね」
なんというお誂え向きな話であろう。この男、豪傑青年にも似合わない、うまい智恵を出したものだ。
「可哀そうだわね、なんだかそのお嬢さんとお話ししてみたいような気がするわ。ね、神谷さん、あたし思いきって、その高梨さんへ奉公しちゃいましょうか」
蘭子は孤独な娘さんへの好奇心も手伝って、ますます乗り気である。
「僕もそいつは名案だと思うね。ちっとばかり突飛だけれど、そのくらいのことをしなければ、あいつの眼を逃れるのはむずかしいかもしれない。恩田が捕えられるまでのあいだ、君はそこに隠れているか」
神谷もこの奇妙な計画に一種の魅力を感じていた。