「そう。ではね、お前も着物を脱いでね、あたしと一緒にお風呂にはいるのよ。そして、あたしのからだを洗ってくれるのよ」
なるほど風変りなお嬢さんであった。小間使いと一緒にお風呂にはいるなんて、妙な趣味もあるものだ。それにしても、あの覆面頭巾をどうするつもりなのだろう。あのまま湯の中へはいるのかしら。蘭子はいささか面くらって、だまって突っ立っていると、たちまちわがままお嬢さんの癇癪声が響きわたった。
「着物をぬぐのよ。何をぼんやりしているの。早くなさいな」
ああ、これが、月給百円の意味なんだな。どんな無理を言われても、さからってはいけないというのは、ここのことなんだな。蘭子は仕方なく帯を解きはじめた。田舎娘にしてはからだが少し白すぎやしないかしらと心配しながら、次々と細紐を解いて行った。
「お嬢さま、あなたも着物をお脱ぎなさいませんか」
相手が突っ立ったまま、いつまでも、じっとしているので、そう勧めてみると、令嬢は、やっぱり怒ったような声で、
「いいから、お前おぬぎ。そして先へお風呂にはいりなさい」
と命令した。
ああ、このお嬢さんは、不具のからだを恥かしがっているんだな。だが、それなれば、何も小間使いなどと一緒に入浴しなくてもよさそうなものじゃないか。
蘭子は言われるままに、とうとう丸はだかになってしまった。そして、大急ぎで湯殿へはいろうとすると、またしてもお嬢さんの声だ。
「まあ、美しいからだをしているのね。お前田舎から出てきたばかりなの? うそでしょう。ほんとうは大都劇場のレビューに出ていたんじゃない?」
蘭子は雷にでも撃たれたように、ハッと立ちすくんでしまった。世間知らずのお嬢さんと見くびっていたら、この人はまあ、なんて鋭い眼を持っているのだろう。
「江川蘭子。ね、そうでしょう。あたし、ちゃあんと知っているのよ」
不思議なことに、お嬢さんの声の調子がひどく変っていた。笛のように甲高い声が、いつの間にか、しわがれた太い声になっていた。
「すみません……これには少し事情があるのです。決して悪意があってしたことではありません」
蘭子ははだかのまま、脱衣室のコルク張りの床に坐って、素直にお詫びをした。もうそうするよりほかに仕方がなかったのだ。
「なにもあやまることはないよ。その事情って、なんだね? もしや、恩田という恐ろしい男の眼をのがれるためではなかったの?」
蘭子はあまりの不意打ちに、もう口もきけなかった。
「ハハハハハ、蘭子さん、驚いたかい、可哀そうに、まっ青になっているじゃないか。ちっとも不思議なことはないんだよ。僕はお前を知り過ぎるほどよく知っているんだもの」
それは確かに男の声であった。お嬢さんが太い男の声で物をいっているのだ。
蘭子は息がつまったようになって、もう身動きさえできなかった。
夢を見ているのかしら、気でも違ったのかしら。こんな変てこなことがあり得るのだろうか。それとも、もしや、もしや……蘭子はヒョイとそれに気がつくと、泣きそうになって、死にもの狂いの声をふりしぼった。
「誰です。あなたは誰です」
「誰でもない。君が会いたがっている男だよ」
頭巾がかなぐり捨てられた。そして、その下から現われたのは、ドス黒い皮膚、骨ばった輪郭、爛々と青くかがやく両眼、赤い唇、牙のような白歯、恩田だ! 人間豹だ!
蘭子はそれを一と眼見ると、何かえたいの知れぬ叫び声を立てながら、ドアの方へ逃げ出そうとした。
「ハハハハハ、蘭子さん、だめ、だめ、そこには、もうちゃんと鍵をかけておいたよ。ほら、鍵はここにある。欲しいかい。欲しければあげないものでもないぜ。ただちょっとした条件があるけれどね」
正体を現わした人獣は、赤い唇を、ペロペロと舐めながら、さも小気味よげに、ニヤニヤと笑い出した。
蘭子は身の置き所もないように、手足をちぢめて、部屋の隅にすくんでしまった。そして、子供みたいにべそをかきながら、おびえきった眼で、恩田の様子をうかがっている。
人獣はじっと蘭子を見つめていた。長いあいだ身じろぎもせず見つめていた。だが、やがて、彼の上半身が、蘭子の方へ前かがみになり、その両手が、徐々に曲げられていった。そして、ついには、一匹の豹が、今にも餌食に飛びかかろうとする、あの無気味な姿勢に変っていた。