獣人対獣人
それから一時間ほど後のこと、明智探偵事務所の門前に、一台の空き自動車がとまったかと思うと、門内の闇の中から、誰かが急ぎ足に歩いてきて、ドアをひらいて待っている運転手に助けられ、無言のまま車内にはいった。運転手が大急ぎで自席に帰って、パッと車内燈を点じる。そのおぼろげな光に照らし出されたのは、見覚えのある洋装、明智夫人文代さんであった。彼女はクッションの隅に身を隠すようにして、なぜかじっとうなだれている。
この物騒な折も折、もう八時を過ぎた今時分、彼女は一体どんな急用が起こったというのであろう。いくら気丈な女探偵だといっても、これは少し冒険すぎはしないだろうか。人間豹はまだ執念深く、その辺の闇に身を潜めていないものでもない。もし彼女のこの不用意な外出を、あいつに悟られでもしたら……
いや「したら」ではない。もうちゃんと悟られてしまったのだ。けだものは、果たしてそこに待ち伏せしていたのだ。
やがて車が音もなくすべり出すと、それを待ち構えてでもいたように、黒い風みたいなものが、サッと飛び出してきて、いきなり自動車の後部へしがみついたではないか。いうまでもない、あいつだ。遠ざかって行く自動車のうしろに、陰火のような二つの蛍火が見えていた。[注、当時の自動車は箱型で、後部にすがりつくことができた]
だが、いつまであんな恰好でしがみついていられるものだろう。やがて車は明るい街路へ出るに違いない。交番の前も通るに違いない。そうすれば、文代さんは害を受けないですむのだ。早く明るい大通りへ出ればよい。
ところが、これはまあどうしたことであろう。車は意地わるくも、まるでわざとのように、淋しい町、淋しい町とえらんで、しかもだんだん郊外の方へ出て行くではないか。
車のうしろが大写しになって、人間豹の醜怪な顔が、闇の中で、ドス黒い舌を吐いて、ニタニタと笑っている。
もう旧市内を離れて、淋しい場末町だ。そのゴミゴミした町と町のあいだに、大きな森のようなものが見える。昔、その辺がまだ村であった時分の鎮守の森が、そのままちゃんと残っているのだ。
実に意外なことには、文代さんの自動車は、その鎮守の森の闇をめがけて、まっしぐらに突き進んで行くではないか。まるで、殺人鬼の注文にそっくりはまりでもしたように。
車がとまったのは、社殿の前の広っぱであった。杉や檜の大樹がまわりを取り囲んで、たださえ暗い闇夜の空を、一そう暗く覆い隠している。その身の毛もよだつ静寂の中へ、可哀そうな文代さんは、昔話にある人身御供みたいに、ほうり出されたのである。
はてな、こいつはあんまり話がうますぎやしないかな。
だが、情慾に燃えたけだものには、そんなことを考える余裕はなかった。恩田は一匹の巨大な猿の恰好で、地上に飛び降りると、いきなり客席のドアをひらいて、異様な唸り声を立てながら、車内へ躍り込んでいった。
クッションの隅には、美しい文代さんが、やっぱりうなだれたまま坐っている。驚いて叫び声を立てるだろう。か弱い腕で抵抗を試みるだろう。恩田は残忍な期待に燃えて、文代さんに掴みかかって行ったのだが、相手は声を立てるどころか、身動きさえもしないではないか。おや、気絶しているのかしら。だが、それにしても……
恩田は両手を伸ばして、文代さんの肩を、ギュッと抱きしめたが、すると、何に驚いたのか、彼は「ギャッ」というような怒りの叫び声を立てたかと思うと、いきなり文代さんのからだを、軽々と車のそとに掴み出し、さも腹立たしげに地べたに投げつけて、その上を、めちゃくちゃに踏みつけるのであった。
それは文代さんではなかったのだ。いや生きた女ではなかったのだ。文代さんの衣裳をつけた、一個の冷たい蝋人形にすぎなかったのだ。
「畜生め、畜生め!」
恩田がやけになって、その文代さんらしいものを踏みつけたのも無理ではない。
ああ、そうだったのか。さいぜん明智の事務所へ運ばれた棺桶ようの木箱の中には、神谷が恐れたような死体ではなくて、このマネキン人形がはいっていたのだ。手品には手品をもって酬いると言った明智は、あらかじめこのことあるを察して、昼のうちにちゃんとマネキンを注文しておいたのに違いない。そして、その思い切ったトリックが、まんまと効を奏したのだ。人形が自動車に乗って外出するなんて、いかな悪魔も思いも及ばないことであった。
「フフフフフ、ご苦労さまだったね」
恩田のうしろに、黒い影が立って、突然声をかけた。
さすがの怪物も、この不意うちには、ギョッとしたらしく、身構えをして振り返った。
「貴様、運転手だな」
「そうだよ。君をここまでお連れ申した運転手だよ」
黒い影は腕組みをして、落ちつき払っている。
「お前、おれが怖くはないのか」
恩田が無気味に低い声で、押しつけるように唸った。