「フフフフフ、怖いのはお前の方だろうぜ。おい、同僚、一つおれの顔をよく見てくれ。おれを誰だと思っているのだね」
運転手が、眼深にかぶっていたソフトを取って、自動車の窓のところへ、ヒョイと顔を出してみせた。
恩田がゾッと身震いしたのも無理ではなかった。
そこには、もう一人の恩田がいたのだ。黒く骨ばった顔、もじゃもじゃした頭髪、まっ赤な唇、その唇のあいだから覗いている野獣の牙のような白歯、皺くちゃになった黒の背広、何から何までソックリそのままの人間豹が、もう一匹、闇夜の森の中に出現したのだ。
二匹の人獣は、淡い車内燈の光の前で、寸分違わぬ顔と顔とを突き合わせ、牙をむき、敵意に燃えて睨み合った。
恩田の顔には、けだものが鏡の前に立たされたような驚愕の表情があった。お化けにでも出っくわしたような恐怖の色が、まざまざと読まれた。
「お前、いったい誰だ?」
おびえた声で尋ねた。
「お前の兄弟分さ」
「ばか言え。ほんとうに誰だ?」
「当ててみたまえ」
恩田は気持を落ちつけるようにして、しばらくだまっていたが、突然恐ろしい形相になって叫んだ。
「貴様、変装しているんだな。わかったぞ、わかったぞ、貴様明智だろう。明智小五郎だろう」
「ハハハハハ、やっとわかったか。お察しの通りだよ。君をこんな目にあわせる人間は、僕のほかにはありやしないよ。ところで、どうだね、僕の変装ぶりは? 誰が見たって、君とソックリだろう。この変装でもって、君のおやじさんの眼をあざむくことはできまいかしら。君はどう考えるね」
「なに、おれのおやじだって?」
「そう、君のお父さんだよ。君を捕縛しただけでは少し物足りないからね。ついでに親子もろとも引っくくって警察の方へ引き渡してやろうかと思うのだよ」
「君一人でかい」
力にかけては十人力の人間豹、一人と一人の争いなら、ビクともするものではない。
「いや、必ずしも僕一人ではないがね」
「それじゃあ、貴様……その辺に仲間が待ち伏せしているんだな」
俄かに恩田の形相が険悪になったかと思うと、いきなり両手をひろげて飛びかかろうとした。
「いや、そいつはいけない。正当防衛の意味でなら、僕は君を銃殺する決心でいるんだよ。手を上げたまえ」
明智の仕草がすばやかったので、相手は用意の拳銃を取り出す隙がなかった。さすがの野獣も言われるままに「お預け」みたいな恰好をしなければならなかった。だが、そうしていながらも、彼は隙もあらば飛びかかろうと、油断なく眼をくばっている。
「諸君、もう出てもよろしい。早くきてこいつを縛ってください」
明智の声に応じて、闇の木蔭から、四、五名の私服警官がバラバラと飛び出してきた。
「恩田、神妙にしろ」
そのうちのおもだった一人が、昔ふうの掛け声で、恩田の背後から組みつくと、つづく二人の警官が、捕縄さばきもあざやかに、たちまち人間豹を、身動きもできぬように縛り上げてしまった。
「それでは、こいつは諸君に預けましたよ。僕はまだもう一人のやつを探し出さなければならない」
明智はピストルをポケットにおさめながら、静かに言った。
「承知しました。いずれ課長からお礼を申し上げるでしょう。それでは僕らは急ぎますから」
一人の私服が自動車の運転台に飛び乗ると[#「飛び乗ると」は底本では「遠び乗ると」]、停止していたエンジンが響きはじめた。残る人々は、人間豹をこづき廻すようにして、狭い車内へ押し込んだ。
自動車は、明智のたたずむ前を、静かに元来た道へと引っ返して行った。