「オーイ、爺さんいねえか。今帰ったよう」
ルンペンが大声にどなると、たちまち地上の各所から「やかましい」「静かにしろ」などという叱り声が湧くように起こった。まったく人気もないように見えた鉄管の中に、おびただしい住民が、一日の休息を取っているのだ。なるほど安眠妨害に違いない。
だが、無神経なルンペンは、又しても大きな声を立てる。
「オーイ、爺さん、いねえかよう」
すると、どこか地の底の方から、かすかに、かすかに、
「オーイ」
という返事が聞こえてきた。
「どうもだいぶ奥の方らしいぜ。お前頭をぶっつけねえように用心しなよ。おれの後からついてお出でよ」
案内のルンペンはそういって、一つの鉄管の中へもぐり込んで行く。明智も仕方なく、四つん這いになって、そのあとからゴソゴソとついて行った。冷たい鉄の匂いがする。
長い鉄管を一つ出抜けると、すぐに又別の鉄管の口があいている。それをいくつもいくつも這い進むうちに、実に困ったことが起こってしまった。明智はいつの間にか案内者を見失ったのだ。何も見えないまっ暗ななかだから、見失ったのではなくて、けはいを感じなくなってしまったのだ。
「おい、どこにいるんだ」
小さな声で呼んでみても、自分の声が鉄管にこだまするばかりで、返事がない。難儀なことには、ルンペンの名前を聞いておくのを忘れた。呼ぼうにも呼びようがないのだ。さすがの名探偵も、鉄管長屋というものが、これほど奇妙な場所だとは知らなかった。
耳をすますと、どっか遠くの方から鼾の声が聞こえてくる。無人の境ではない。人間がいることはいるのだ。しかしもう方角がわからなくなってしまった。鉄管は必ずしも並行に列んでいるわけではないので、幾つも幾つもくぐり抜けているあいだには、迷路の中に迷い込んだのも同然になる。
そのうち、鉄管の口と口とのあいだに、少し広い隙間のある場所へ出たので、明智はそこの地面に立って、ニュッと鉄管の上に頭を出してみた。すると、驚いたことには、四方八方鉄管の海である。暗さは暗し、どの方角へ進んだら一ばん早くそとの地面へ出られるかも、ほとんど見当がつかない有様だ。
ともかくも、でたらめに見当をつけて、又ゴソゴソと這い出したが、しばらく行くと、なんとなく周囲がざわめき出したような感じがした。方々でボソボソと話し合う声が聞こえる。何事が起こったのか、聞き耳を立てると、ややはっきりした声が聞こえてきた。
「オイ、こん中に人間豹が逃げ込んでいるんだってよ」
「人間豹てなんだい」
「おめえ知らねえのか。この頃、世間で騒いでいる大悪党だよ。江川蘭子を殺した恐ろしいけだものだよ」
そんなことがかすれかすれに聞こえてきた。
まだ明智はその恐ろしい意味をはっきりと悟らなかった。
「人間豹がいるなんてばかなことがあるもんか。あいつはちゃんと捕縛されているのじゃないか」
迂闊にもそんなことを考えていた。
そのうちに、鉄管人種の騒ぎはだんだん大きくなって行くように見えた。あっちでもこっちでもどなり声が響きはじめた。
「オーイ、みんな起きろよう。こん中へ人間豹が逃げ込んだってよう」
「人殺しがいるんだってよう」
それらの声々が、鉄管にこだまして[#「こだまして」は底本では「こまだして」]、物凄くとどろきわたった。
明智はやっと、彼の恐ろしい立場を了解した。
「人間豹はほかにいるんじゃない。このおれが人間豹だった。もしこの中に恩田の人相風体を知っているやつがいたら、たちまちおれが人間豹にされてしまうに違いない」
実になんとも形容のできない困惑であった。急に顔のメーク・アップを落とそうとしたって、油か、せめて水がなければどうなるものでもない。
「こいつは大変なことになってしまったわい」
もうこの上は、捕物など断念して逃げ出すほかに思案はない。彼は、人声から遠ざかるように、遠ざかるようにと注意しながら、鉄管から鉄管へと、無茶苦茶に這い出した。
すると、たちまち恐ろしい障害物にぶっつかってしまった。
「アッ、痛え、誰だ、誰だ」
明智と鉢合わせした男が、相手の胡散くさい態度に気づいて、大声にわめき出した。
「オーイ、みんな、ここにいたぞお。人間豹の野郎がここにいたぞお」
明智は物も言わず大急ぎで反対の方へ逃げ出した。だがそれが一そう事態を悪化させる結果となった。逃げるからにはテッキリ人間豹に違いないという確信を与えてしまった。
「逃げた、逃げた。吉公、お前の方へ逃げたぞ。とっつかまえろっ」
かようにして、鉄管迷路のめくら滅法な鬼ごっこがはじまった。逃げた、逃げた、汗びっしょりになって逃げまどった。
明智はこんな変てこな立場は、生れてはじめてであった。追われるものの心持がつくづくわかったような気がした。
逃げて逃げて、ヒョイと気がつくと、ああ助かった。とうとう鉄管の迷路を抜け出すことができたのだ。もう眼の前にはなんの障害物もない。一面の黒い広っぱだ。
ホッとして、ノコノコそこを這い出した途端、彼の耳元で、
「ワーッ」
という喊声が上がった。ハッとして首をすくめながら、そとの様子をうかがうと、助かったと思ったのは、束の間の空頼みであったことがわかった。ルンペンどもは前もって明智の逃げ道を察し、そこの出口に一とかたまりになって、手に手に得物を持って待ち構えていたのである。
明智はとっさにそのけはいを察して、すばやく首を引っ込めると、元来た方角へ逃げはじめた。だが、行く手にも無数の敵が待ち構えている。一つの鉄管を駈け抜けるたびに、次に這い込む鉄管を、用心深く選択しなければならなかった。