「さっきもいった通り、君の雇い人たち、チンピラ探偵の小林と女中とは、台所の板の間で、仲よく寝ているし、君の奥さんは、ほら、例の人形の箱ね、あの箱の中でスヤスヤおやすみなんだよ。表にはおれのトラックが待ち構えている。そこへ箱詰めの文代さんを積んで、おさらばしようってわけなのさ。君にはちっとばかりお気の毒だが、美しい奥さんとも今夜限り永のお別れだねえ」
(君は僕の探偵としての力を軽蔑しているようだね)
明智の声はひどく落ちつき払って、少しも困惑の調子を帯びていなかった。
「ウン、軽蔑しているよ。探偵のくせに大事の奥さんを盗まれるなんて、軽蔑してもいいと思うよ」
(ところが、そんなことはできっこないのだ。君は夢を見ているんだ。君は僕のほんとうの力を知らないのだよ)
電話の声に何かしら確信に満ちた威厳のようなものが感じられた。何かしら恩田をギョッとさせるような調子があった。
「ウフフフフフ、君はまだ、負け惜しみを言っているんだね。そんな遠吠えなんぞ、なんの役にも立ちやしないよ」
(ねえ、君。君は僕がなぜいつまでも、こんな無駄口をたたいているかわかるかね……ばかに落ちついているじゃないか。いま女房を盗まれようとしている男とは見えんじゃないか……君、怖くはないのかい。僕がいま何を考えているか、君にはわかるまいね)
「畜生っ、さては貴様、ここへ電話をかける前に何か細工をしたんだな。警察か。警察へ電話がかけてあるのか」
(ハハハハ……どうだい、少し怖くなったろう。警察かもしれない。もっと別のことかもしれない。いずれにしても、君は僕の最後の罠にはまったのだよ。ハハハハハ、君、たいへん気に掛けているようだね。息遣いがここまで聞こえるよ)
「だまれ、だまれ。貴様なんかのおどかしに乗るおれじゃないぞ」
(まあ聞きたまえ。怒ったってしようがないよ。僕はね、こうして君と愉快に話している間に、君たち親子の巣窟をつきとめたのも同然なんだよ。黒い糸がね、眼にも見えない黒い糸がね、蜘蛛の巣のように君のからだにからみついて離れないのだよ。どこまででも、君の行く所まで、その糸がつながって行くのだよ)
恩田はそれを聞くと、変な顔をして思わず身のまわりをキョロキョロと見まわした。ほんとうに、そんな蜘蛛の糸が、どこか天井の隅からスーッと降りてきて、彼のからだにクルクルまきついているような、異様に無気味な感じに襲われはじめた。
「もうこの上貴様の世迷言を聞いている暇はない。じゃあアバヨ。奥さんは確かに頂戴したぜ」
(まあ待ちたまえ。ハハハハハ、そう慌てなくってもいいじゃないか。ハハハハハ、まだ話があるんだよ。どっさり話があるんだよ。ハハハハハ)
ガチャンと受話器をかけてしまっても、探偵の無気味な笑い声が耳について離れなかった。彼は眼に見えぬ妖魔を払いのけるように、ブルンと一つ身震いして立ち上がった。
「ヘヘン、怪談なんぞを、怖がると思っているのかい」
するどい眼がまたはげしい燐光を放ちはじめた。彼は野獣の歩き方で廊下へ出た。すると、たちまち、何かしら小さな影のようなものが、スーッと廊下の向こうに消えるのが感じられた。電燈は一つ折れ曲がった玄関の方についているだけなので、そのあたりはひどく薄暗いのだが、その薄闇の中を何かえたいの知れない形のものが、通り魔のように過ぎ去ったのである。
人間のようでもあった。またそうでないようにも思われた。影法師かもしれなかった。玄関の電燈の下を誰かが通って、その影が映ったのではないかと、大急ぎで曲がり角からのぞいてみたが、人のけはいはない。何か大きなコウモリのようなものが、廊下の床をスレスレに飛び去った感じであった。
恩田は慌てないではいられなかった。怪談を怖がったわけではない。身辺の危険を感じたのだ。その影法師が凶事の前兆のような気がしたのだ。もうこのうちのまわりは警官たちによって取り囲まれているのかもしれない。そいつらの影が廊下まで感じられたのかもしれない。
彼は獲物に忍びよる豹の静かさで、玄関の土間に飛びおりると、入口のドアを用心深く細目にひらいて、青く光る眼で、そとの闇を入念に見まわした。だが、ホッとしたことには、植込みにも、門前の道路にも、なんの怪しいけはいも見えぬ。そこで、彼は合図の口笛を、二た声低く吹き鳴らした。
間もなく門の方から、二つの黒い人影が、ノソノソとはいってきた。運送屋の人夫といった風体である。
「表は大丈夫だろうね。誰もきやしなかっただろうね」
恩田がささやき声で尋ねる。
「猫の子一匹通りゃしねえ。ひどく陰気な町ですねえ。いくら夜中だといって、この淋しさはどうだ」
「おい、念のために、あのことを言っておこうじゃねえか」
一人の男が、何か意味ありげにささやく。
「こいつ、またはじめやがった。お前の気のせいだっていうのに、臆病な野郎じゃねえか」
「おいおい、何をボソボソ言ってるんだ。何かあったのか」
恩田がきめつけると、臆病者といわれた男が、あたりの闇をキョロキョロ見まわしながら、変なことを報告した。
「なんだか小さな影みたいなものが、トラックのまわりをウロウロしていやがった。まったく小っぽけなやつでね。小人島の影法師みてえな、なんだかこうゾーッとするような、いやな物でしたよ」
「親方、気にしちゃいけねえ。この野郎、今夜はどうかしているんだ。それよりも、早く荷物を運び出そうじゃありませんか」
この人夫体の二人は、前科者の運転手なのだが、大方何か犯罪がかったこととは知りながら、莫大な謝礼金に眼がくらんで、一夜かぎりの恩田の手下に雇われているのであった。