「ウン、早くしてくれ。荷物はこの廊下にあるんだ。少し重い代物だよ」
恩田は先に立って人形箱に近づいた。
「これだ、あまり手荒くしないように、貴重品だからね」
「おやおや、まるで棺桶みてえですね」
「人形箱だよ、大切な人形がはいっているんだ。さあ、早く運んでくれ」
二人の男が、木箱を持ち上げている隙に、恩田はソッと台所のドアをひらいて覗いてみた。少しも異状はない。小林少年も女中も、さいぜんと同じ姿でグッタリと眠っている。小林少年が抱いてきた、文代さんそっくりのマネキン人形は、胴体を二つに折り曲げて、調理台の下へ首を突っ込んでころがっている。
それを見届けておいて、彼は人形箱を運んで行く二人の男を監視しながら、門外へと出て行った。そこの闇にヘッドライトを消した一台のトラックがとまっている。荷物をのせてしまうと、二人の男は運転台についた。恩田は人形箱と一緒に無蓋の箱の中にうずくまった。エンジンが深夜の屋敷町にけたたましく響き渡ったかと思うと、この異様な誘拐自動車は、たちまち明智探偵事務所の門前を遠ざかって行った。
結局、何事もなかったのだ。警官たちは間に合わなかったのだ。ただ、ちょっと気になるのは、廊下をさまよい、トラックのまわりをうろついたという、例の怪しい影法師であったが、それもこうして車が走り出してしまえばなんの事もない。もしやその辺に影法師がぶら下がっているのではないかと、念入りにトラックのまわりをしらべてみたが、むろん何物も発見されなかった。恩田はやっと安堵を感じた。とうとうおれが勝ったぞ。美しい文代さんは完全におれのものになったぞ。彼は揺れるトラックの上を、いとしい人形箱によりかかりながら、豹の眼を細め、豹の口をだらしなくひらいて、ゾッとするような獣類の笑いを笑うのであった。
するとさっきの明智の電話は、単なるおどかしにすぎなかったのであろうか。名探偵は一個の怪談師になり下がってしまったのであろうか。いやいや、そうではない。そうでない証拠があるのだ。さいぜん明智は、「黒い糸」のことを言った。「黒い糸」が恩田にからみついて離れぬと言った。その黒い糸のようなものが、見よ、今恩田のトラックの尾端から、闇夜の道路に細々と筋を引いているではないか。赤いテイルライトの下あたりから、蜘蛛の糸のように絶え間なく地面に繰り出されているものがあるではないか。
だが、車上の恩田はむろんそれを知らなかった。またたとえ車を降りてその部分に眼をやったとしても、闇夜の中の、あるともなき一と筋の蜘蛛の糸を、いかな豹の眼とて、到底見わけることはできなかったに違いない。それほど細く、それほど黒く、何かしら曖昧な、無気味な、魔性の糸であった。
悪魔のトラックは、なるべく淋しい住宅街をえらんで、深夜の東京を北へ北へと去った。われわれはしばらく姿なき眼となって、闇の空中を飛行しながら、適度の間隔を取って、この怪トラックの跡をつけてみることにしよう。五分、十分、二十分、車は何事もなく走りつづけた。恩田は人形箱にもたれかかったまま、一つの黒いかたまりのように身動きもしない。深夜といっても、時たますれ違う人がある。だが、彼らはこの一見なんの変てつもないトラックを怪しむようなことはなかった。赤い電燈の交番の前も幾つとなくすぎたけれど、おまわりさんたちは、眼の前を恐ろしい殺人自動車が通るのも知らないで、皆そっぽを向いていた。やがて、車が九段に近い淋しい濠端を走っていた時、われわれの姿なき眼は、前方の車上に、実に恐ろしい椿事を目撃したのである。
恩田の黒い姿が車上に中腰になって、しきりと手を動かしはじめた。いったい何をしているのだろう。少し眼を近づけてみよう。車とのあいだが三間ほどになるように……すると、ああ、わかった。彼は待ちきれなくなったのだ。箱の中の恋人に会いたくなったのだ。彼は人形箱の縄を解いてしまった。蓋をあけて中を覗きこんでいる。長いあいだ覗きこんでいる。
おや、何をしようというのだ。人間豹は箱の中から気を失っている文代さんを抱き起こしたばかりではない。文代さんを小脇に抱えてスックとばかり立ち上がった。矢のように走る車の上にたちはだかった人間豹の精悍な黒い影と、その腰のあたりにグッタリとぶら下がっている文代さんの白い姿が、明暗二色に浮かび上がった。
するとたちまち、実に恐ろしいことが起こった。猛獣がその野性を暴露したのか。それとも彼は気が違ってしまったのであろうか、文代さんの首が飴ででもあるようにスーッと伸びたかと感じられた。
かつての夜、猛犬の上顎と下顎に手をかけて、二つに引き裂いたばか力が、今、彼女の首を引きちぎったのだ。
奇怪な幻か悪夢のような光景であった。ハッと見る間に、白い流星が闇の空に弧を描いて飛んだ。恩田は引きちぎった首を、悪魔の国の鞠投げのように、いきなり車の外へほうり出したのだ。
野獣は口から泡を吹いて怒り狂っていた。物凄い唸り声さえも聞こえてきた。彼は餌食をズタズタにしないではおかぬのだ。首の次には手が、足が、想像もつかない残虐さで、次々と引きちぎられて行った。そしてそれらの美しい八ツ裂き死体は、まるで大根かなんぞのように、無神経に、傍若無人に、いやむしろこれ見よがしに、闇の濠端へ投げ捨てられたのであった。