だが、そこにころがっていたのは、やっぱり人形ではなかった。何がどうあろうとも、本物の文代さんであった。まだ気を失っていたけれど、調理台の下から顔を引き出して調べるまでもなく、からだにさわってみれば、人形か人形ではないかは、たちまちわかることであった。恒川氏と明智とは、そのグッタリとした文代さんを抱いて、とりあえず書斎の長椅子へと運んだ。ついでに女中さんのよく太ったからだもそこの肘掛椅子の柔かいクッションへ。
すぐに電話でお医者さんが呼ばれた。だが、文代さんはただ麻酔剤で眠っているばかりだ。さして心配することはない。それよりも、この際もっと大切なことがある。人間豹を捕えなければならないのだ。
「明智君、僕にはまだ事情がよくわからんが、これは小林君の手柄なのかい。それにしても……」
「そうだよ。この少年探偵さんの大手柄だよ。つまり、小林が僕の日頃の言いつけを、忠実に守ってくれたわけなのだ」
「すると、小林君、君が恩田の隙をうかがって、一度箱に入れられた文代さんを、また元の人形と入れ換えておいたとでもいうわけかい」
「ええ、そうです。でも、先生が恩田のやつをあんなに長く電話口へ惹きつけておいてくださらなかったら、とてもできなかったのです。僕は機会がないかと一所懸命待っていました。すると、うまいぐあいに先生から電話がかかって、先生の智恵で僕に仕事をする隙を与えてくださったのです。僕はあの電話を聞いて、先生は暗に僕に命令をくだしていらっしゃるんだなと感じたのです」
少年が林檎のような頬をかがやかせて、にこやかに説明した。
「だが待ちたまえ。むろん君もあいつに麻酔剤を嗅がされたんだろう。でなければ、あいつがそんな油断をするはずはないからね」
「ええ、ですけど、僕、息が強いんです。一所懸命になれば、二分以上息をつめていても平気なんです。いつも先生に、それを利用することを忘れるなって教えられていたもんですから、ガーゼで鼻と口をふさがれても、じっと息をつめて、気を失ったまねをしてやったんです」
さすがの恩田もこの可憐な少年に、そんな大それた隠し芸があろうとは知らぬものだから、グッタリとなったのを見て、安心しきってしまったものであろう。
「へえ、君がねえ。驚いたもんだな……ハハア、これだね、明智君、さいぜん君が謎みたいなことを言っていたのは」
「そうだよ。僕の勝敗はただその一点にかかっていたのだよ……だが、小林君、君はもう一つのことを忘れやしなかっただろうね。ほら、昼間は白、夜は黒のアレを」
「ええ、うまく仕掛けました。むろん黒の方です。運転台にいた手下のやつが、なんだか怪しんでいたようですが、あの仕掛けには気づかなかったらしいです」
「恒川君、僕の発明品が役に立ったぜ」
「なんだか面白そうな話だね、いったいどんな発明なんだい。その昼間は白、夜は黒っていうのは」
警部が好奇の眼をかがやかした。
「自動車尾行器とでもいうかね。自分で直接尾行できない場合、相手の行方をつきとめる仕掛けなんだ。車のナンバー・プレートなんてものは、替えようと思えばいつだって替えられるからね。それに番号はわかっていても、車の所在がなかなかつきとめられぬ場合がある。そこで僕の発明なんだが、それはね、クレオソートを一杯入れて大きなブリキ缶に、丈夫な取手をつけて、そいつを自動車の後尾の車体の下へちょっと、引っかけておきさえすればいいんだ。ブリキ缶の底には針で突いたほどの穴があいている。そこからポタリポタリと、大げさにいえば、細い糸のようになって、クレオソートが地面にしたたるという仕掛けなのだよ」
「そして、そのしたたったあとを、探偵犬につけさせようってわけだね。シャーロックの役目のほどがわかったよ。だが、白だの黒だのっていうのは?」
「昼間は色のないクレオソート、夜は光の反射をさけるために黒いクレオソート、つまりコールタールを使用するんだ。その二色の薬をつめたブリキ缶が、僕の家にはいつもちゃんと用意してあったのだよ。尾行というやつは余程手腕のいる仕事だからね。女子供にはむずかしい。そこで小林や文代などには、まさかの場合は危険は冒さないで、この道具を使うように言い含めてあるんだ。今夜の場合などは、殊に適切だったよ。小林の機転を褒めてやってもらいたいね」
「ウン、さすがに君のお弟子ほどのことはあるよ。敵が電話をかけている隙をうかがって、それだけの仕事をするなんて、見上げたもんだ……さあ、それじゃ小林君の手柄をむだにしないように、さっそく追跡をはじめようか」
「ウン、それには警察の自動車が一台要るね。僕らがそれに乗って、その前をシャーロックに走ってもらうんだ」
「もう僕の方の刑事たちがやってくる時分だよ、先生たちきっと自動車に乗ってくるだろう」
間もなくその二名の腕利き刑事が、警察自動車を飛ばして来着した。
明智は文代さんのことは医者に任せておいて、恒川警部と共にその自動車に乗りこんだ。名犬シャーロックには長い綱をつけて、運転台に席を取った恒川氏が、その綱の先を握っている。
小林少年はクレオソートをたっぷり含ませた布を持ってきて、シャーロックの鼻先につきつけた。これから追跡するものの匂いを充分覚えさせるためである。
犬は鼻をヒクヒクさせて、薬品のはげしい匂いに親しんだ。小林少年が突然その布片を持って家の中へ駈け込んでしまうと、彼は方角に迷って、しばらくキョトンとしていたが、やがて、類似の匂いを嗅ぎつけたのか、鼻面で地面をこするようにして、勢いこんで前進をはじめた。
「よし、出発だ」
恒川氏の指図に従って、車は動き出した。シャーロックは時々立ち止まっては、烈しく走り出す。そのたびごとに車の速度を調節しなければならなかったけれど、さすがに名犬は敵のあとを見失うようなことはなく、異様な追跡自動車は、寝静まった深夜の町々を、北へ北へと進んで行った。
明智がさっきの電話で、黒い糸のようなものが恩田のからだにからみついて離れないといったのは、つまりこのことであった。彼の言葉が単なるおどし文句や怪談ではなかったことが、今こそ明らかになったのである。