その二天門の敷石に、一人のむさくるしいいざりの乞食が、夜詣りの人を目当てに、まだ店を張っていた。
「ああ、こいつに聞いてみたら、見覚えているかもしれない」
明智は独りごとを言いながら、その乞食のそばへ近づいて行った。
幸い恩田の変装を解かないでいるし、メーク・アップもまだ洗い落としていなかったので、尋ねるのに、手数はかからぬ。
「おい、君、君、今から三十分ほど前にね、ここを、こういう男が通らなかったかね。つまりこの僕とソックリの男だ」
明智が前に立ちはだかって聞くと、いざり乞食はヒョイと顔を上げて、不意の質問者を眺めた。なんてひどい片輪者であろう。両足がまったくだめで、手に草鞋のようなものをはいている上に、顔じゅうが腐れただれて、ほとんど眼鼻もわからないむごたらしさだ。その顔が破れたお釜帽子の下から、ヒョイと覗いたときには、明智は思わずわきを向いて、話しかけたのを後悔したほどであった。
「ああ、旦那とそっくりの人、通った、通った、あっち、あっちへ行った」
乞食は呂律のまわらぬ口でそう言いながら、草鞋ばきの手で観音堂の方を指し示した。
「ほんとうかい。間違いないだろうね」
「ウン、ほんとうだ。旦那とそっくりだった」
乞食の鈍い眼にも、明智の際立った変装姿がわからぬはずはない。それとそっくりの男だったというからには、おそらく間違いはないであろう。こんな恐ろしい形相の人間が、あいつのほかにあるはずはないのだから。
一同は明智を先頭に、観音堂の方へ歩いて行った。明智はその辺にウロウロしているルンペンどもを捉えて、片っぱしから質問した。恒川氏は、お堂の前の交番に立ち寄って、そこの警官にも聞きただした。だが、誰も明確に答えるものはなかった。二天門のような狭い通路と違って、この電燈の遠い広い場所では、むしろそれが当然だと言ってもよかった。
しばらくのあいだ、本堂のまわりから公園の池にかけて、綿密な捜索が行なわれたが、むろん、なんの獲物もなかった。
「今夜は引き上げるほかないよ。警察としてはできるだけの動員をして、浅草公園そのものを囲んでしまうんだね。そんなことをしても、この入り組んだジャングルの豹狩りは、おぼつかないと思うけれど。僕も民間探偵の力に及ぶだけはやってみるつもりだよ」
「ウン、さっそく手配をしよう。夜の明けるまでに何か君に報告できるかもしれんぜ。われわれの仲間には、このジャングルの秘密に通暁しているやつが、たくさんあるんだからね。だが、君のお蔭で犯人が浅草公園へはいったことがわかっただけでも、大した収穫だ」
明智と恒川氏はそんなことを言いながら、二人の刑事といっしょに元の二天門へと引っ返した。そこの敷石にはさいぜんのいざり乞食が、まだ慾張って店を出していた。明智はふと心づいて、ポケットの小銭を探り、彼の前の面桶に投げ入れて通りすぎた。
「旦那、旦那」
おやっと立ち止まって振り返ると、いざり乞食が呼び止めている。
「旦那、おとしもんだ。これ、これ」
草鞋の手で指し示す地上に、二つに折った封筒が落ちていた。
「僕が落としたっていうのかい」
明智はけげんらしく二、三歩立ち戻って、その封筒を拾い上げた。
「ああ、その旦那だ。いま落としたんだ」
乞食がくずれた顔でお追従笑いをしている。
封筒を門の天井の電燈にかざして見ると、表に「明智小五郎殿」とある。確かに明智のものに違いない。だが、彼はそんな封書などをポケットに入れてきた記憶はまったくないのだ。
「おい、恒川君、僕たちはいま公園の中で、あいつにすれ違ったのかもしれないぜ」
「えっ、あいつって、人間豹のことか」
「ウン、どうもそんな気がするんだ。ともかく、こんな明かりじゃだめだから、自動車まで帰ろう。そして一つこの封筒をよく調べてみよう」
明智はすぐ向こうの電車通りに待っている警察自動車へ急いだ。
明るいヘッド・ライトの前に、四人が顔をつき合わせて封書を調べた。封筒は薄いハトロン紙の安物だ。裏に差出人の名前もなく、封もひらいたままになっている。明智は急いで中身を取り出してみた。半紙型のザラ紙、それに鉛筆の走り書きで、左のような文句がしたためてある。
明智君、さすがに君は名探偵だね。おれの獲物は人形だった。その上、君はおれがここへきたことを知っていた。実にするどいねえ。ブルブルブル、おお怖い。だがね探偵さん、この手紙を読んで君がどんな顔をするか、見てやりたいものだね。おかしくって。一体いつの間に誰がこんなものを君のポケットへ投げ込んだか、わかりますかね。探偵さん、まだちっとばかり修業が足りないようだね。それじゃまた会おうぜ。
人間豹