「わかったかね。その恩田だよ。もう一つの名は人間豹っていうのだそうだね。君たちはうまい名をつけてくれた。フフフフフ、おっと文代さん、逃げようたって逃がしゃしないよ。それから、君がいくら大きな声を立てたって、ここには近所というものがないんだから、なんの役にも立ちやしないよ……気の毒だが観念するほかはあるまいぜ」
醜悪なけだもののくせに、まるで芝居のせりふみたいなことを言いながら、人間豹は身を縮めた餌食の上にジリジリと迫ってきた。
野獣のように骨ばった黒い顔、ギラギラと青く光る巨大な眼、まっ赤な唇、ドキドキと研ぎすましたようなするどい歯、それが徐々に徐々に、文代さんのおびえた眼界一杯に、途方もない大写しになって接近した。
事実逃げようとて逃げる余裕はなかった。といって、この強力無双の怪物に打ち勝つなど思いも及ばぬことであった。多くの女性は多分泣きわめきながら獣人の餌食となるほかはなかったのであろう。だが、文代さんはそうはさせなかった。
長い無残な悪戦苦闘であった。文代さんの美しい顔は拳闘選手のように傷つき、着物はズタズタに裂け破れた。あばら骨が浮き上がるほどの息遣いに、喉は涸れ、舌は黒コゲのように干からびてしまった。人間豹さえも、顔じゅうに脂汗を浮かべていたほどの戦いであった。
むろん文代さんは死ぬほどの目にあわされた。だが、最後の一線を譲ることはなかった。それを死守する余力だけは残っていた。さすがの悪魔もあまりにも頑強な女性の力にあきれ果てて、愛慕から逆転して憎悪へと、第二の手段に移るほかはなかった。
「ヘヘヘヘヘ」
悪魔のまっ赤に充血した口から、昂奮のあまりの調子はずれな笑い声がほとばしった。
「貴様、それじゃ早く殺されたいんだな。おれの方ではそれも望むところだよ。ちゃんと計画してあるんだ。思い切り奇妙な死刑の方法が考えてあるんだ。フフフフフ、文代さん、恐ろしくはないかね……それとも思い直しておれの大事なお客様になるか。え、その気になれないのかね」
「…………」
「ヘヘヘヘヘ、怖い顔をして睨みつけたね。だが、今にそいつが泣きっ面に変るんだ。その時になって後悔しないがいいぜ」
人間豹は倒れ伏した文代さんに顔を向けたまま、ニタニタ薄気味わるく笑いながら、横歩きに押入れの前に近づくと、その襖をガラリとひらいた。
押入れの中に大きな木箱が見えた。器械を送る荷造り箱のような厚い板の頑丈な箱だ。恩田はその蓋をひらいて、中から何かを掴み出した。
文代さんは明智の力を信じきっていた。相手が魔物なれば、彼女の夫は超人である。決して殺されることはない。必ず助けてくれる。名探偵明智小五郎は意想外の手段によって、不可能を可能にするのだ。最後の最後まで力を落とすことはないと、固く信じきっていた。
だが、人間豹の怪しげな言葉を聞き、さも自信ありげなせせら笑いを耳にすると、さすがに脅えないではいられなかった。ちょうど外科患者が手術台やメスの棚をドキドキして盗み見るように、押入れの中の異様な箱に、そこから取り出された一物に、眼を注がないではいられなかった。
人間豹が魔術師のようなゼスチュアで箱の中から引きずり出したものは、ひどく嵩張った黒くてグニャグニャした、何かしらゾッとするようなものであった。
はじめのうちは、薄暗い押入れの中で、その正体を見届けることができなかったけれど、やがて、それがズルズルと明るみに持ち出されるに従って、そのものに顔のあることがわかってきた。尖ったまっ黒な顔だ、キラキラ光る眼、ガックリひらいたまっ赤な口、ニョキと覗いた大きな牙、そして、深々として黒い毛むくじゃらの胴体、するどい爪のはえた四本の足。
熊だ。人間豹が熊を掴み出したのだ。しかし、あんなにグニャグニャしている様子では、生きてはいない。では熊の死骸なのか。いやいや、死骸にしてはお腹がひどくペチャンコだ。すると剥製の毛皮なのかしら。だが、どこやら毛皮とも違うところがある。毛皮ならああまで生きものの感じが残っているはずはない。