金口の巻煙草
だが、やがて、青ざめていた明智の顔にサッと血がのぼった。何かしら悟るところがあったのに違いない。そして次の瞬間には、彼の眼に恐ろしい焦慮の色が浮かんだ。こうしてはいられない。文代さんが危ないのだ。しかし、この厳重な監禁をどうして脱出することができるだろう?
「ところがね、君、僕は夕方までここにはいないつもりだよ」
突然、明智はニコニコした表情になって言い放った。
「おいおい、から威張りはよせよ。いないつもりだって、おれの方でいさせておくんだからしようがないじゃないか」
「この縄かね?」
「ウン、それもあらあ、どんな縄抜けの名人だって、その縄だけは、ちょいと抜けられめえよ」
「それから、そのピストルかね」
「ウン、そうよ、そうよ。この小っちゃい仲間は、まことに気持のいいやつでね。貴様たち二人くらいの命を取るのはなんの造作もありやしないのさ」
「ブルブルブル、おお、怖い怖い。それじゃあ、まあおとなしくころがっているとしようかね」
明智はおかしそうに笑い出して、ゴロリと横になった。
「なんだか薄気味のわるいやつだなあ……だが、そうおとなしくしていりゃあ、こっちも別に文句はねえ。じゃあまた窮屈だろうが、こいつをはめさせてもらおうかね」
男は固く丸めた手拭いを取って、再び猿ぐつわをはめる用意をした。
「おい、君、そいつをはめる前に、一つ頼みがあるんだがねえ」
明智がやっぱりニコニコして言い出した。
「なんだ」
「君は煙草を持っていないかい。腹がくちくなると、今度は一服吸いたくってねえ。面倒ついでに、一つ煙草もくわえさせてくれないか」
「ウン、煙草か。感心だよ。さすがに度胸が据わっているねえ。お安いご用だ。だが、おあいにくと、切らしたよ。おれもさいぜんから一服やりたくってしようがねえんだが、君たちをほうっておいて買いに出るわけにもいかずねえ。気の毒だが我慢してくんな」
「やれやれ、そいつは残念だなあ……待てよ。おい、君、あるよあるよ。僕の内ポケットにシガレット・ケースがはいっているんだ。その中にまだ二、三本残っているはずだよ。君、すまんがこのポケットへ手を入れて、そいつを出してくれないか。むろん君にも一本進呈するよ。M・C・Cだぜ」
「ウン、M・C・Cとは、聞き捨てにならねえな。久しくお眼にかからねえよ。よしよし、いま出してやるよ」
男はよほどの煙草好きとみえて、相好をくずしながら、明智の職工服の内ポケットへ手を入れた。きたない職工服から銀のシガレット・ケースだ。それからもう一と品、大型の万能ナイフがカチカチ音を立てて一緒に引っ張り出された。
「おや、こんなものを持っていやあがる。危ない危ない。こいつはこっちへ預かっておいてと」
男は万能ナイフをわきに置いて、それからシガレット・ケースをパチンとひらいた。
「あれ、金口だぜ、今時流行らねえじゃねえか。それに、二本ぽっちだぜ」
「二本でもいいじゃないか。僕が一本、君が一本」
「ウン、まあ我慢して仲よく一本ずつ分けるか。二本とも没収しちゃってもいいんだが」
さいぜんからの話しぶりでもわかる通り、この拳闘選手みたいな大男は、悪人に似合わぬお人よしとみえる。
彼は寝ころんでいる明智の口へ、一本の金口の巻煙草をくわえさせて、マッチをすってやった。
「いや、ご苦労ご苦労、実にうまいよ。さあ、君も遠慮なくやりたまえ」
明智は青い煙をフーッと天井へ吹きつけながら、くわえ煙草で、ほがらかに勧める。
男はなかなかの煙草好きとみえて、薫りのよい煙を感じると、もう我慢できないといった調子で、自分も一本の金口を取って、火をつけ、いきなりスパスパとやり出した。
「ところでねえ、君、君はZ曲馬団というのを知らないかね」
明智はなにげない世間話のようにはじめた。
見ていると、妙なことに、彼はM・C・Cの煙を、惜しげもなくフーフーと吐き出すばかりで、深く吸い込む様子がない。ほんとうに煙草がほしかった人とも思われぬ仕草だ。
Z曲馬団と聞くと、男はなぜかドギマギして、あまりうまくない答え方をした。
「知らないよ。そんな曲馬団なんて」
「そうかい。たぶん知ってるだろうと思ったがねえ」
明智は眼を細くして、睫毛のあいだから、じっと男の様子を見つめていた。
男はだまり込んで、むやみに煙草を吸っている。あまりにのんびりとしたテンポののろい会話、敵味方とも思われぬほがらかな情景、何かしら物憂い生暖かい空気が部屋を包んでいた。睡気をもよおすような一時が経過した。
「ハハハハハ、さて大将、いよいよお別れの時がきたようだね」
突然、明智が煙草の吸いさしを吐き出して、低く笑いながら言った。
だが、相手の男はこの暴言になんの答えをする力もなかった。
彼は煙草を持った手をダランと垂れて、ポカンと口をあいて、物憂い春霞の中に、さも心地よく舟を漕いでいた。コクリコクリと、居眠りの最中であった。
「神谷君、ご挨拶はあとです。僕らは助かりましたよ。こいつは眠ってしまったのです」
明智が今までとはうって変った緊張した声で、かたわらの青年に呼びかけた。
疲労のために、いくじなくグッタリしていた神谷青年は、この明智の声にハッと身を起こした。
「では、今の煙草に何か……」
「そうですよ。僕はいざという時の用意をおこたったことはありません。僕の内ポケットには、どんな時でも必らず二本のウェストミンスターかM・C・Cの、強い麻酔剤を仕込んだ巻煙草が、ちゃんとはいっているのですよ。僕はそれをちっとも吸い込みはしなかった。ところが、先生は煙草に餓えていて矢鱈に吸い込んだのですからね。たちまちこの有様です。もう踏んでも蹴っても眼をさますことじゃありませんよ」
「ああ、そうでしたか」
神谷は名探偵の用意に感嘆して、
「ですが、この縄をどうして」
と、まだ不審顔。
明智は「あれ」と眼で教えておいて、いきなり腹這いになると、さいぜん男が彼のポケットから掴み出して畳の上に置いた万能ナイフの方へにじり寄って行き、やっとのことで、それを口にくわえた。
それから、ナイフの柄を柱の角に当てて、器用にその刃をひらくと、柄の方を奥歯でしっかりと支えて、われとわが胸の縄をゴシゴシこすりはじめた。