大空の爆笑
見物たちはまだおしだまっていた。大テントの下はまるで墓場のように静まり返っていた。だが、その沈黙の中に、何かしらお化けみたいな烈しい疑惑がただよいはじめているように見えた。
「これがお芝居なのかしら。お芝居にあれほど真に迫った恐怖の表情ができるものだろうか。第一いくら商売といっても、美しい肌に、あんなひどい傷をつけられて、平気でいるなんて、常識では考えられないことだ」
「ひょっとしたら、あの女は猛獣使いでもなんでもない、素人娘かもしれないぞ。すると、これはまあなんて恐ろしいことがはじまったものだろう。大群集の面前での人殺しじゃないか。しかも、猛獣の牙にかけて、一寸だめし五分だめしの、無残この上もない人殺しじゃないか」
見物たちの頭の中に、そんな判断力が、ぼんやりとよみがえりかけていたとき、突如として、どこかしら高い所から、男の笑い声が降ってきた。カラカラという乾からびたような、しかし、ひどく傍若無人な高笑いであった。
千百の顔が、一斉に天井を見上げた。
天井には、曇り日の空のような白っぽいテントがあった。テントのすぐ下には、荒縄でくくった丸太棒が縦横無尽に交錯していた。その丸太棒の一本に、ポッツリと雀のようにとまっている人の姿があった。そいつが、舞台の惨劇を見おろして、さもおかしくて堪らないというふうに、ゲラゲラと笑っているのだ。その男の顔立ちは、遠くてはっきりしなかったけれど、見物たちは、彼のつぶらな両眼がまるでけだもののように、青く燃え立っているのを見のがさなかった。燐のように光る眼だ。とうとう、あいつが姿を現わしたのだ。
群集はそれを見ると、一そう気違いじみた昏迷におちいらないではいられなかった。気の弱い人々は、一目散にテントのそとへ逃げ出したい衝動を感じた。
舞台の檻の中では、美しい半人半獣が、今は気力も尽きはてて、グッタリと倒れたまま動かなかった。気を失ったのであろう。虎の鼻面がすぐ眼の前に迫っても、声も立てなければ、身動きさえもしなかった。その白蝋のように美しい肌の上に、一条の血汐が、赤い蛇となってからみついていた。
檻の横手にたたずむ猛獣団長の顔はドス黒く昂奮して、その偉大なる将軍ひげは激情にうち震え、つぶらな両眼はまっかに充血していた。彼は手にする鞭を、物狂わしく空中に振りつづけた。
ヒューッ、ヒューッという嵐のような音響が、血に餓えた虎を、いやが上にもいらだたせた。彼は見物席に向かって一と声高く咆哮したかと思うと、いきなり二本の前脚を倒れている美女の胸にかけて、その喉笛に、今度こそは生きた人間の喉笛に、牙を突き立てようとした。
ガブリ、ただ頸と顎の筋肉が一と縮みすれば事は終るのだ。一個の人命が断たれるのだ。
見物たちのうちに、これをしもお芝居と考えるものは、一人もいなかった。千百の顔が、一刹那ハッと色を失って思わず舞台の上から眼をそらした。次に起こるべきあまりにもむごたらしい光景を、正視するに忍びなかったのだ。婦人客は両手で眼を覆った。
読者諸君、われらのヒロイン明智文代さんの一命は、かくして猛虎の筋肉の一と縮みにかかっているのだ。諸君もすでに推察されたように、人間豹親子は、美しい明智夫人を誘拐して、熊の毛皮をかぶせ、大胆不敵にも、公衆の面前で、見るもむごたらしい悪魔のリンチを行なおうとしているのだ。
天井の丸太棒につかまった「人間豹」恩田と、猛獣使い大山ヘンリーになりすまして、鞭をうち振るその父親とは、数丈の上と下とで、ひそかに顔を見合わせて、わが事成れりと肯き合った。そして、父親の鞭は、いよいよその音を高め、「人間豹」の笑い声はますます傍若無人になりまさるのであった。
その時である。
観客たちは、何かしら頭の芯を貫くような、一瞬の衝動を感じた。おやっ、どうしたんだ。ああ多分やられたのに違いない。彼らは、鮮血にまみれた虎の顎を想像しながら、でも怖いもの見たさに、そらしていた眼を、一斉に舞台に向けた。
すると、これは一体何事が起こったのだ。殺されていたのは、人間ではなくて虎の方であった。彼は脳天から一と筋の血を滴らして、グッタリと横たわっていた。もう身をもがく力もない。おそらく一瞬にして息絶えたものであろう。