美しい半人半獣の方は、やっぱり失神したままであったけれど、肩の掻き傷のほかにはなんの別状もなく、危くも虎の顎をのがれたのである。
丸太棒の上の笑い声がパッタリとやんだ。大山ヘンリー氏の鞭が動かなくなった。彼は何がなんだかわからず、キョトンとして見物席を眺めていた。
すると、彼の視線の中を、見物席をかき分けながら前に進んでくる人物があった。職工姿の明智小五郎だ。神谷青年だ。それから制服私服の一団の警察官だ。言うまでもなく、危機一髪の境に猛虎を射殺した名射撃手は明智であった。彼の右手に握られたコルト拳銃から、名残りの白煙がかすかに立ち昇っていた。
彼のあとにつづく警官は、明智の電話によって恒川警部が手配してくれた、K警察署からの先発隊であった。明智がZ曲馬団の木戸口に着いた時には、彼らはもう自動車を降りて明智の到着を待ち構えていた。
「明智さんだ。明智さんだ」
変装はしていたけれども、さすが大衆の眼早さで、見物席のどこからともなく、名探偵讃美の声が起こった。彼らは新聞記事によって、明智小五郎と「人間豹」との対立をよく知っていた。明智夫人誘拐事件についても、けさの新聞を読んだばかりだ。その明智探偵が、物々しい警官隊と共に乗り込んできたからには、怪人「人間豹」がこの小屋の中に潜んでいることは十に一つも間違いはない。いや、それどころか、あの檻の中で虎の餌食になろうとした美しい人は、きっと明智夫人文代さんにきまっている。ああ、なんという恐ろしい場面に出くわしたものだろう。敏感な人々は、たちまち事の真相を悟って身震いを禁じ得なかった。
大山ヘンリーに変装した「人間豹」の父親は、明智の姿を認めると、サッと顔色を変えて逃げ出そうと身構えたが、すばやい警官隊は、むろんその余裕を与えず、ドカドカと舞台に駈け上がって、彼のまわりを取り囲んでしまった。
するとさすがは老怪物、逃げ腰になっているのをシャンと立て直して、将軍ひげを震わせながら、声のない笑いを笑った。そして、ゆっくりゆっくりズボンのポケットに手を入れると、一挺の小型ピストルを取り出して、警官たちの鼻の先につきつけるのであった。
その頃、場内は津波のような混乱におちいっていた。木戸口に殺到する群集のわめき声、将棋倒しの下敷きになって悲鳴を上げる老人、泣き叫ぶ女子供、その騒然たる物音の中に一ときわ高い怒号の声が、彼方此方に響きわたっていた。
「人間豹だ」
「人間豹があすこにいる」
「ああ、逃げ出した。人間豹は屋根の上へ逃げ出したぞ」
見上げると、天井に交錯した丸太棒の上を、さいぜんの笑い声のぬしが、一匹の黒猫のように、眼にも見えぬ早さで走っていた。或いは縦によじ登り、或いは斜めにすべり、或いは横に綱渡りをして、丸太棒から丸太棒へと、伝い伝って、彼はついに、テントの裂け目から屋根の上に出てしまった。
透き通って見える白い帆布の上を、動物とも人間とも見分けのつかぬ奇怪な黒影が、丸くなって、飛ぶがごとく跳ねるがごとく走って行く。
今や場内に居残った大群集は残らず「人間豹」の敵であった。彼らは声を揃えて、逃げ行く悪魔を囃し立てた。気の早い兄いたちは、二人三人と、勇敢にも丸太棒をよじ登って、「人間豹」を追っかけはじめた。Z曲馬団の人たちもおくれはしない。道具方の青年、空中曲芸の軽業師などが四人五人、明智小五郎の指図を受けて、猿のように天井へと駈け上って行った。
Z曲馬団と「人間豹」親子とは、別に深い関係があるわけではなかった。ただ二匹の猛獣をつれた親子のものが、西洋帰りと称して、Z曲馬団に取っては非常に有利な条件で、臨時加入を申し込んだものだから、殺人犯人とは夢にも知らず、その申し込みに応じて、宣伝などをしたまでであった。したがって、Z曲馬団の全員も、今は決して「人間豹」の味方ではなかった。
「そとへ廻れ、そとへ廻れ、人間豹は屋根から飛び降りて逃げる気だぞ」
群集の叫び声に教えられるまでもなく、明智はすでにその手配をしていた。警官隊の一部と曲馬団の男たちが、テントのそとへ飛び出して、小屋の周囲に散兵線を敷いた。明智自身も彼らのあとにつづいてそとに出ようとした。そとの広場に立って、屋根の上の捕物を監視したいと思ったのだ。だが、彼がそうして木戸口へ急いでいるとき、うしろの舞台で、突如として一発の銃声が聞こえたかと思うと、人々の烈しい罵り声が爆発した。
ハッとして振り向く眼の前に、一つの悲劇が終っていた。将軍ひげいかめしい闘牛士は、金モールの胸から血を流して不恰好にくずおれていた。彼は包囲の警官たちを威嚇していたピストルで、われとわが胸を射貫いたのだ。運の尽きを悟ってか、悪魔に似合わぬいさぎよい最期であった。