ちょうどそのとき、又しても一隊の警察官が、木戸口からなだれ込んできた。
「おお、明智君、奥さんは大丈夫か」
先頭に立った恒川警部が、先ずそれを尋ねた。
「ウン、やっと間に合った」
明智は舞台の一方を顎でしゃくって見せた。そこには、曲馬団の人たちの手で、檻から助け出された文代夫人が、まだ意識を失ったまま、座蒲団を積みかさねた上にグッタリとなっていた。
「だが、残念なことに、犯人の一人が自殺してしまった」
「ああ、そこに倒れている……するとあれが恩田のおやじだね」
「そうだよ。猛獣使いに化けていたんだ」
「で、息子の方は?」
「屋根の上へ逃げ出した。あれを見たまえ」
明智が指さす大テントの天井には、右往左往する捕物の人々が、異様な影絵となって入り乱れていた。
「そとへ出てみよう」
明智と恒川警部と新来の[#「新来の」は底本では「新米の」]警官たちとは、大急ぎで木戸口を出ると、見世物小屋のうしろの広場へ駈けつけた。そこは、先に配置された警官や、曲馬団員や、帰りそびれた見物たちで、黒山の人だかりであった。
明智たちは、それらの群集のうしろの小高い場所に立って、テントの屋根の斜面上での、烈しい捕物を監視した。
まっ黒な背広を着た「人間豹」は、彼の本性の四つん這いになって、広いテントの白地の上を、縦横無尽に跳ねまわっていた。だが、追手の中には、野獣にも負けぬ軽業の名手が、二人も三人もまじっている。その上、逃げるのは一人、追っ駈けるのは十人に近い人数だ。さすがの「人間豹」も徐々に徐々に、屋根の隅へと追いつめられて行った。
「いよいよあいつも運の尽きだね。飛び降りるか、でなきゃあ……」
恒川警部がそんなことをつぶやいた時、まるで言い当てでもしたように、空の黒豹は、屋根の端からすばらしい跳躍をしたのである。
四つん這いの黒いからだが、尺とり虫のように縮んだかと思うと、やにわにサッと延びて、空中に見事な弧を描いた。
それを見ると、地上の群集は「ワーッ」と叫んで、逃げ足立ったが、不思議なことに、いつまでたっても、黒豹は墜落してこなかった。
「アッ、風船だ。風船へ逃げた」
誰かのどなり声に、人々は又一斉に空を見上げた。すると、これはどうだ。逃げる場所もあろうに、「人間豹」はアド・バルーンの綱にすがりついて、屋根のそとの空中にぶら下がっていたのである。
広告風船は、風にゆらめきながら、銀色の巨体を、遥かの空に浮かべていた。風船の下には「猛獣大格闘……Z曲馬団」の紅文字が、ヒラヒラとひらめいて、そこからスーッと流れた一条の綱が、ちょうど明智たちの立っている広場の片隅、風船昇降用のロクロまでつづいていた。
「ロクロを捲け、ロクロを捲け」
人々は叫びながら、ロクロに駈け寄って、三人四人五人と力を合わせ、ヨイトマケ、ヨイトマケ、広告風船の綱を捲きとりはじめた。
あわれ稀代の殺人魔「人間豹」も、もはやのがれるすべはなかった。ロクロの廻転につれて風船の綱はみるみる縮まって行く。そして結局風船が地上におろされたとき、「人間豹」も逮捕の運命をまぬがれることはできないのだ。この大捕物の大団円も、もはや五分、三分の後に迫っていた。
だが、綱につかまった「人間豹」は、諦めわるく上へ上へと昇って行く。ロクロが一尺捲きとれば、彼も一尺昇るのだ。そして、巨大な風船が、テントの屋根とすれすれまで引きおろされた時にも、黒豹は依然として元の空中にただよっていた。すでに「Z曲馬団」の四文字を昇りつくし「大格闘」の大の字のあたりにしがみついていた。
「オーイ、むだな骨折りをさせるな、早く降りてこい」
地上の警官たちが業をにやして、空中の犯人に呼びかけた。
「ワハハハハハ、諸君、君たちこそむだ骨折りはよしたまえ」
空中からの応答が、風に吹き飛ばされながら、かすかに聞こえてきた。
「ああ、明智君、恒川君もそこにいるんだね。ご苦労さま。だが、君たちは又むだ骨折りをするばかりだぜ」
「人間豹」は赤い「大」の字の前にぶら下がって、傍若無人の憎まれ口を叩いた。
「馬鹿野郎、文句はあとでゆっくり聞いてやる。早く降りてこおい。往生ぎわがわるいぞう」
警官が負けずに応酬した。
「アハハハハハ、君たちおれをつかまえた気でいるのかい。ハハハハハ、こいつはお笑い草だ。なぜといってね、おれは決してつかまらないからな」
叫ぶかと思うと、空中の恩田の右手にキラリと光るものがあった。大型ナイフだ。そのナイフが彼の腰のあたりの綱の上を烈しく左右に動くよと見る間に、たちまち綱はプッツリと切断された。切断されるが早いか、今までロクロと数人の力とで地上に引きつけられていた風船は、まるで鉄砲玉のように恐ろしい早さで天空に舞い上がって行った。
「ワハハハハハ明智君、あばよ。恒川君、あばよ。ワハハハハハ」