余は好意の干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。
人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念を起し悪い。それが好意となると、相手の所作が一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、活物の自分にその一挙一動がことごとく応える。そこに互を繋ぐ暖い糸があって、器械的な世を頼母しく思わせる。電車に乗って一区を瞬く間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方が情が深い。
義務さえ素直には尽くして呉れる人のない世の中に、また自分の義務さえ碌に尽くしもしない世の中に、こんな贅沢を並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意の干乾びた社会に存在する自分を切にぎごちなく感じた。――或る人の書いたものの中に、余りせち辛い世間だから、自用車を節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのは固より一時の融通を計る便宜に過ぎない。今の大多数は質に置くべき好意さえ天で持っているものが少なそうに見えた。いかに工面がついても受出そうとは思えなかった。とは悟りながらやはり好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。
今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小憎しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚かるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。
こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、自らぎごちなく感じた。そうして病に罹った。そうして病の重い間、このぎごちなさをどこへか忘れた。
看護婦は五十グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌と混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か烏の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反故にした。
医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。
子供と違って大人は、なまじい一つの物を十筋二十筋の文からできたように見窮める力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情を恣ままに吸収する場合が極めて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがたかった、本当に尊かったと、生涯に何度思えるか、勘定すれば幾何もない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中に保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に一片の記憶と変化してしまいそうなのを切に恐れている。――好意の干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。
天下自多事。 被吹天下風。 高秋悲鬢白。
衰病夢顔紅。 送鳥天無尽。 看雲道不窮。
残存吾骨貴。 慎勿妄磨※[#「石+龍」、638-7]。