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硝子戸の中(3)

时间: 2021-01-21    进入日语论坛
核心提示:三 私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。
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 私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。
 その時彼はまだ乳離(ちばな)れのしたばかりの小供であった。Hさんの御弟子は彼を風呂敷(ふろしき)に包んで電車に()せて(うち)まで連れて来てくれた。私はその()彼を裏の物置の(すみ)に寝かした。寒くないように(わら)を敷いて、できるだけ居心地の好い寝床(ねどこ)(こしら)えてやったあと、私は物置の戸を()めた。すると彼は(よい)(くち)から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたった(ひと)り寝るのが淋しかったのだろう、(あく)(あさ)までまんじりともしない様子であった。
 この不安は次の晩もつづいた。その(つぎ)の晩もつづいた。私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事が(よる)になると必ず気にかかった。
 私の小供は彼を珍らしがって、()がな(すき)がな玩弄物(おもちゃ)にした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事ができなかった。ところが生きたものを相手にする彼らには、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。それで彼らは私に向って犬に名を()けてくれとせがみ出した。私はとうとうヘクトーという偉い名を、この小供達の朋友(ほうゆう)に与えた。
 それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイと希臘(ギリシャ)と戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達の(かたき)を取ったのである。アキリスが(いか)って希臘(がた)から(おど)り出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒先(ほこさき)を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってその(あと)を追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーを(やり)で突き殺した。それから彼の死骸(しがい)を自分の軍車(チャリオット)(しば)りつけてまたトロイの城壁を三度()()り廻した。……
 私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与えたのである。何にも知らないはずの(うち)の小供も、始めは変な名だなあと云っていた。しかしじきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれるたびに、(うれ)しそうに尾を振った。しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡な耶蘇教信者(ヤソきょうしんじゃ)の名前と一様に、(ごう)古典的(クラシカル)な響を私に与えなくなった。同時に彼はしだいに宅のものから(もと)ほど珍重されないようになった。
 ヘクトーは多くの犬がたいてい(かか)るジステンパーという病気のために一時入院した事がある。その時は子供がよく見舞(みまい)に行った。私も見舞に行った。私の行った時、彼はさも嬉しそうに尾を振って、(なつ)かしい眼を私の上に向けた。私はしゃがんで私の顔を彼の(そば)へ持って行って、右の手で彼の頭を()でてやった。彼はその返礼に私の顔を所嫌(ところきら)わず()めようとしてやまなかった。その時彼は私の見ている前で、始めて医者の(すす)める小量の牛乳を()んだ。それまで首を(かし)げていた医者も、この分ならあるいは(なお)るかも知れないと云った。ヘクトーははたして癒った。そうして(うち)へ帰って来て、元気に飛び廻った。

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