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硝子戸の中(8)

时间: 2021-01-21    进入日语论坛
核心提示:八 不愉快に充(み)ちた人生をとぼとぼ辿(たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常
(单词翻译:双击或拖选)


 不愉快に()ちた人生をとぼとぼ辿(たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも(たっ)とい」
 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来(おうらい)するようになった。
 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母(ふぼ)、私の祖父母(そふぼ)、私の曾祖父母(そうそふぼ)、それから順次に(さかの)ぼって、百年、二百年、乃至(ないし)千年万年の間に馴致(じゅんち)された習慣を、私一代で解脱(げだつ)する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
 だから私の(ひと)に与える助言(じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人(いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
 こうした言葉は、どんなに(なさけ)なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に(おも)むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を()らしている。こんな拷問(ごうもん)に近い所作(しょさ)が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着(しゅうちゃく)しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
 その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の(おもて)を輝やかしていた。
 彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に()()めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
 私は彼女に向って、すべてを(いや)す「時」の流れに従って(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに()げて行くだろうと嘆いた。
 公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。(はげ)しい生の歓喜を夢のように(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も()()ける手段を(おこ)たらないのである。
 私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口(きずぐち)から(したた)る血潮を「時」に(ぬぐ)わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
 かくして常に生よりも死を(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に()ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸(ぼんよう)な自然主義者として証拠(しょうこ)立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。

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