九
私が高等学校にいた頃、比較的親しく交際った友達の中にOという人がいた。その時分からあまり多くの朋友を持たなかった私には、自然Oと往来を繁くするような傾向があった。私はたいてい一週に一度くらいの割で彼を訪ねた。ある年の暑中休暇などには、毎日欠かさず真砂町に下宿している彼を誘って、大川の水泳場まで行った。
Oは東北の人だから、口の利き方に私などと違った鈍でゆったりした調子があった。そうしてその調子がいかにもよく彼の性質を代表しているように思われた。何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼の怒ったり激したりする顔を見る事ができずにしまった。私はそれだけでも充分彼を敬愛に価する長者として認めていた。
彼の性質が鷹揚であるごとく、彼の頭脳も私よりは遥かに大きかった。彼は常に当時の私には、考えの及ばないような問題を一人で考えていた。彼は最初から理科へ入る目的をもっていながら、好んで哲学の書物などを繙いた。私はある時彼からスペンサーの第一原理という本を借りた事をいまだに忘れずにいる。
空の澄み切った秋日和などには、よく二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。そうした場合には、往来へ塀越に差し出た樹の枝から、黄色に染まった小さい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色をよく見た。それが偶然彼の眼に触れた時、彼は「あッ悟った」と低い声で叫んだ事があった。ただ秋の色の空に動くのを美くしいと観ずるよりほかに能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密の符徴として怪しい響を耳に伝えるばかりであった。「悟りというものは妙なものだな」と彼はその後から平生のゆったりした調子で独言のように説明した時も、私には一口の挨拶もできなかった。
彼は貧生であった。大観音の傍に間借をして自炊していた頃には、よく干鮭を焼いて佗びしい食卓に私を着かせた。ある時は餅菓子の代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った。
大学を卒業すると間もなく彼は地方の中学に赴任した。私は彼のためにそれを残念に思った。しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然と見えたかも知れない。彼自身は無論平気であった。それから何年かの後に、たしか三年の契約で、支那のある学校の教師に雇われて行ったが、任期が充ちて帰るとすぐまた内地の中学校長になった。それも秋田から横手に遷されて、今では樺太の校長をしているのである。
去年上京したついでに久しぶりで私を訪ねてくれた時、取次のものから名刺を受取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもの通り客より先に席に着いていた。すると廊下伝に室の入口まで来た彼は、座蒲団の上にきちんと坐っている私の姿を見るや否や、「いやに澄ましているな」と云った。
その時向の言葉が終るか終らないうちに「うん」という返事がいつか私の口を滑って出てしまった。どうして私の悪口を自分で肯定するようなこの挨拶が、それほど自然に、それほど雑作なく、それほど拘泥わらずに、するすると私の咽喉を滑り越したものだろうか。私はその時透明な好い心持がした。