十二
私に短冊を書けの、詩を書けのと云って来る人がある。そうしてその短冊やら絖やらをまだ承諾もしないうちに送って来る。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、拙い字とは思いながら、先方の云うなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。
私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻くために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字を他に送ってやるくらいの所作は、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。しかし自分が病気のとき、仕事の忙がしい時、またはそんな真似のしたくない時に、そういう注文が引き続いて起ってくると、実際弱らせられる。彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送り返すこちらの手数さえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。
そのうちで一番私を不愉快にしたのは播州の坂越にいる岩崎という人であった。この人は数年前よく端書で私に俳句を書いてくれと頼んで来たから、その都度向うのいう通り書いて送った記憶のある男である。その後の事であるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送った。私はそれを開けるのさえ面倒だったから、ついそのままにして書斎へ放り出しておいたら、下女が掃除をする時、つい書物と書物の間へ挟み込んで、まず体よくしまい失くした姿にしてしまった。
この小包と前後して、名古屋から茶の缶が私宛で届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山の画を返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰った覚のない私は、打ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。
それから二三カ月経った。たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中に坐っているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。私は今まで忘れていたものを、眼のあたり見て驚ろいた。さっそく封を解いて中を検べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚した。
包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという文句が書いてあった。私はいよいよ驚ろいた。
しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とは遥か懸け離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。