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硝子戸の中(17)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示:十七 私はその東家をよく覚えていた。従兄(いとこ)の宅(うち)のつい向(むこう)なので、両方のものが出入(ではい)りのたびに、顔
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 十七


 私はその東家をよく覚えていた。従兄(いとこ)(うち)のつい(むこう)なので、両方のものが出入(ではい)りのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶(あいさつ)をし合うぐらいの間柄(あいだがら)であったから。
 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩(ほうとう)もので、よく宅の懸物(かけもの)や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い(くせ)があった。彼が何で従兄の家に(ころ)がり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらく(うち)を追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
 こういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、縁側(えんがわ)へ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子(たけごうし)の窓から、「今日(こんち)は」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌(ごあいきょう)に遊びに来る。といった風の調子であった。
 私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋(はにかみや)で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って(すみ)の方に引込(ひっこ)んでばかりいた。それでも私は何かの拍子(ひょうし)で、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か(おご)らなければならないので、私は人の買った寿司(すし)や菓子をだいぶ食った。
 一週間ほど()ってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時咲松(さきまつ)という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私は小倉(こくら)(はかま)穿()いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣(こづかい)さえ無かった。
「僕は(ぜに)がないから(いや)だ」
「好いわ、(わたし)が持ってるから」
 この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、綺麗(きれい)襦袢(じゅばん)(そで)でしきりに薄赤くなった二重瞼(ふたえまぶち)(こす)っていた。
 その()私は「御作(おさく)が好い御客に引かされた」という(うわさ)を、従兄(いとこ)(うち)で聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松(さきまつ)と云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会も()ないだろうと考えた。
 ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人(たつじん)といっしょに、芝の山内(さんない)勧工場(かんこうば)へ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。こちらの書生姿に()()えて、彼女はもう(ひん)の好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女の(そば)についていた。……
 私は床屋の亭主の口から出た東家(あずまや)という芸者屋の名前の奥に(ひそ)んでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありゃ私の(めい)でさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作は()くなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩(ウラジオ)で亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸(ガラスど)の中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

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