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硝子戸の中(19)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示:十九 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実(じつ)小さな宿場としか思わ
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十九


 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その(じつ)小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、(さび)()ってかつ(さむ)しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内(しゅびきうち)か朱引外か分らない辺鄙(へんぴ)(すみ)の方にあったに違ないのである。
 それでも内蔵造(くらづくり)(うち)が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を(あが)ると、右側に見える近江屋伝兵衛(おうみやでんべえ)という薬種屋(やくしゅや)などはその一つであった。それから坂を()()った所に、間口の広い小倉屋(こくらや)という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛(ほりべやすべえ)が高田の馬場で(かたき)を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒(ますざけ)を飲んで行ったという履歴のある家柄(いえがら)であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという(うわさ)の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北(おきた)さんの長唄(ながうた)は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の(うち)の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過(ひるすぎ)などに、私はよく恍惚(うっとり)とした魂を、(うらら)かな光に包みながら、御北さんの御浚(おさら)いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を()たせて、佇立(たたず)んでいた事がある。その御蔭(おかげ)で私はとうとう「旅の(ころも)篠懸(すずかけ)の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
 このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋(かじや)も一軒あった。少し八幡坂(はちまんざか)の方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ()もあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋(とんや)の仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際(つきあい)からいうと、まるで疎濶(そかつ)であった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄(あいだがら)に過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水(ていすい)と好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞(ひとぎき)に聞いて覚えてはいるが、(まと)まった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立(やたて)と帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度に()げて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじだのがれんだのという符徴(ふちょう)を、(のの)しるように呼び上げるうちに、(しょうが)茄子(なす)(とう)茄子の(かご)が、それらの節太(ふしぶと)の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。
 どんな田舎(いなか)へ行ってもありがちな豆腐屋(とうふや)は無論あった。その豆腐屋には油の(におい)()()んだ縄暖簾(なわのれん)がかかっていて門口(かどぐち)を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗(きれい)だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺(せいかんじ)という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の(うしろ)は、深い竹藪(たけやぶ)で一面に(おお)われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤(おつとめ)(かね)()は、今でも私の耳に残っている。ことに(きり)の多い秋から木枯(こがらし)の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて(つめ)たい或物を(たた)き込むように小さい私の気分を寒くした。

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