二十
この豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢幻のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
その席亭の主人というのは、町内の鳶頭で、時々目暗縞の腹掛に赤い筋の入った印袢纏を着て、突っかけ草履か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤さんという娘があって、その人の容色がよく家のものの口に上った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後には養子を貰ったが、それが口髭を生やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
この養子が来る時分には、もう寄席もやめて、しもうた屋になっていたようであるが、私はそこの宅の軒先にまだ薄暗い看板が淋しそうに懸っていた頃、よく母から小遣を貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の家はどこにあったか知らないが、どの見当から歩いて来るにしても、道普請ができて、家並の揃った今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を逞ましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁え、と云われて八ツ橋なんざますえとふり返る、途端に切り込む刃の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教わったのか、それとも後になって落語家のやる講釈師の真似から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。
当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠とか、竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
あの土手の上に二抱も三抱えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間隙間をまた大きな竹藪で塞いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄などを穿いて出ようものなら、きっと非道い目にあうにきまっていた。あすこの霜融は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染み込んでいる。
そのくらい不便な所でも火事の虞はあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋もおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾の隙間からあたたかそうな煮〆の香が煙と共に往来へ流れ出して、それが夕暮の靄に融け込んで行く趣なども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。