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硝子戸の中(20)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示:二十 この豆腐屋の隣に寄席(よせ)が一軒あったのを、私は夢幻(ゆめうつつ)のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場(ひとよ
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二十


 この豆腐屋の隣に寄席(よせ)が一軒あったのを、私は夢幻(ゆめうつつ)のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場(ひとよせば)のあろうはずがないというのが、私の記憶に(かすみ)をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人(あるじ)というのは、町内の鳶頭(とびがしら)で、時々目暗縞(めくらじま)の腹掛に赤い(すじ)の入った印袢纏(しるしばんてん)を着て、突っかけ草履(ぞうり)か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤(おふじ)さんという娘があって、その人の容色(きりょう)がよく(うち)のものの口に(のぼ)った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。(のち)には養子を貰ったが、それが口髭(くちひげ)()やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席(よせ)もやめて、しもうた()になっていたようであるが、私はそこの(うち)の軒先にまだ薄暗い看板が(さむ)しそうに(かか)っていた頃、よく母から小遣(こづかい)を貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟(なんりん)とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の(うち)はどこにあったか知らないが、どの見当(けんとう)から歩いて来るにしても、道普請(みちぶしん)ができて、家並(いえなみ)(そろ)った今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を(たく)ましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁(おいらん)え、と云われて()(はし)なんざますえとふり返る、途端(とたん)に切り込む(やいば)の光」という変な文句は、私がその時分南麟から(おす)わったのか、それとも(あと)になって落語家(はなしか)のやる講釈師の真似(まね)から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。
 当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠(ちゃばたけ)とか、竹藪(たけやぶ)とかまたは長い田圃路(たんぼみち)とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂(かぐらざか)まで出る例になっていたので、そうした必要に()らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来(やらい)の坂を(あが)って酒井様の()見櫓(みやぐら)を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森(いんしん)として、大空が曇ったように始終(しじゅう)薄暗かった。
 あの土手の上に二抱(ふたかかえ)三抱(みかか)えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間(すきま)隙間をまた大きな竹藪で(ふさ)いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄(ひよりげた)などを穿()いて出ようものなら、きっと非道(ひど)い目にあうにきまっていた。あすこの霜融(しもどけ)は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に()()んでいる。
 そのくらい不便な所でも火事の(おそれ)はあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子(はしご)が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋(いちぜんめしや)もおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾(なわのれん)の隙間からあたたかそうな煮〆(にしめ)(におい)(けむり)と共に往来へ流れ出して、それが夕暮の(もや)()け込んで行く(おもむき)なども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木(かな)」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

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