二十四
「そんな所に生い立って、よく今日まで無事にすんだものですね」
「まあどうかこうか無事にやって来ました」
私達の使った無事という言葉は、男女の間に起る恋の波瀾がないという意味で、云わば情事の反対を指したようなものであるが、私の追窮心は簡単なこの一句の答で満足できなかった。
「よく人が云いますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものの好な男でも、菓子が厭になるって、御彼岸に御萩などを拵えているところを宅で見ていても分るじゃありませんか、拵えるものは、ただ御萩を御重に詰めるだけで、もうげんなりした顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」
「そういう訳でもないようです。とにかく廿歳少し過ぎまでは平気でいたのですから」
その人はある意味において好男子であった。
「たといあなたが平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたって誘われがちになるのが当り前でしょう」
「今からふり返って見ると、なるほどこういう意味でああいう事をしたのだとか、あんな事を云ったのだとか、いろいろ思い当る事がないでもありません」
「じゃ全く気がつかずにいたのですね」
「まあそうです。それからこちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心はどうしても、その相手に惹きつけられる事ができなかったのです」
私はそれが話の終りかと思った。二人の前には正月の膳が据えてあった。客は少しも酒を飲まないし、私もほとんど盃に手を触れなかったから、献酬というものは全くなかった。
「それだけで今日まで経過して来られたのですか」と私は吸物をすすりながら念のために訊いて見た。すると客は突然こんな話を私にして聞かせた。
「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていた事があります。相手は無論素人ではないのでした。しかしその女はもういないのです。首を縊って死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦那が二人あって、双方が意地ずくで、身受の金を競り上げにかかったのです。それに双方共老妓を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理責にもしたらしいのです。……」
「あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか」
「当時の私は丁稚の少し毛の生えたようなもので、とてもどうもできないのです」
「しかしその芸妓はあなたのために死んだのじゃありませんか」
「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。……しかし私ら二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違ないのです」
「するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね」
「あるいはそうかも知れません」
「あなたは寝覚が悪かありませんか」
「どうも好くないのです」
元日に込み合った私の座敷は、二日になって淋しいくらい静かであった。私はその淋しい春の松の内に、こういう憐れな物語りを、その年賀の客から聞いたのである。客は真面目な正直な人だったから、それを話すにも、ほとんど艶っぽい言葉を使わなかった。