二十六
益さんがどうしてそんなに零落たものか私には解らない。何しろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。益さんの弟の庄さんも、家を潰して私の所へ転がり込んで食客になっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。小供の時分本町の鰯屋へ奉公に行っていた時、浜の西洋人が可愛がって、外国へ連れて行くと云ったのを断ったのが、今考えると残念だなどと始終話していた。
二人とも私の母方の従兄に当る男だったから、その縁故で、益さんは弟に会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一遍ぐらいは、牛込の奥まで煎餅の袋などを手土産に持って、よく訪ねて来た。
益さんはその時何でも芝の外れか、または品川近くに世帯を持って、一人暮しの呑気な生活を営んでいたらしいので、宅へ来るとよく泊まって行った。たまに帰ろうとすると、兄達が寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」などと威嚇したものである。
当時二番目と三番目の兄は、まだ南校へ通っていた。南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると、開成学校すなわち今日の大学へ這入る組織になっていたものらしかった。彼らは夜になると、玄関に桐の机を並べて、明日の下読をする。下読と云ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。グードリッチの英国史といったような本を、一節ぐらいずつ読んで、それからそれを机の上へ伏せて、口の内で今読んだ通りを暗誦するのである。
その下読が済むと、だんだん益さんが必要になって来る。庄さんもいつの間にかそこへ顔を出す。一番目の兄も、機嫌の好い時は、わざわざ奥から玄関まで出張って来る。そうしてみんないっしょになって、益さんに調戯い始める。
「益さん、西洋人の所へ手紙を配達する事もあるだろう」
「そりゃ商売だから厭だって仕方がありません、持って行きますよ」
「益さんは英語ができるのかね」
「英語ができるくらいならこんな真似をしちゃいません」
「しかし郵便ッとか何とか大きな声を出さなくっちゃならないだろう」
「そりゃ日本語で間に合いますよ。異人だって、近頃は日本語が解りますもの」
「へええ、向でも何とか云うのかね」
「云いますとも。ペロリの奥さんなんか、あなたよろしいありがとうと、ちゃんと日本語で挨拶をするくらいです」
みんなは益さんをここまでおびき出しておいて、どっと笑うのである。それからまた「益さん何て云うんだって、その奥さんは」と何遍も一つ事を訊いては、いつまでも笑いの種にしようと巧らんでかかる。益さんもしまいには苦笑いをして、とうとう「あなたよろしい」をやめにしてしまう。すると今度は「じゃ益さん、野中の一本杉をやって御覧よ」と誰かが云い出す。
「やれったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」
「まあ好いから、おやりよ。いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと……」
益さんはそれでもにやにやして応じない。私はとうとう益さんの野中の一本杉というものを聴かずにしまった。今考えると、それは何でも講釈か人情噺の一節じゃないかしらと思う。
私の成人する頃には益さんももう宅へ来なくなった。おおかた死んだのだろう。生きていれば何か消息のあるはずである。しかし死んだにしても、いつ死んだのか私は知らない。