二十七
私は芝居というものに余り親しみがない。ことに旧劇は解らない。これは古来からその方面で発達して来た演芸上の約束を知らないので、舞台の上に開展される特別の世界に、同化する能力が私に欠けているためだとも思う。しかしそればかりではない。私が旧劇を見て、最も異様に感ずるのは、役者が自然と不自然の間を、どっちつかずにぶらぶら歩いている事である。それが私に、中腰と云ったような落ちつけない心持を引き起させるのも恐らく理の当然なのだろう。
しかし舞台の上に子供などが出て来て、甲の高い声で、憐れっぽい事などを云う時には、いかな私でも知らず知らず眼に涙が滲み出る。そうしてすぐ、ああ騙されたなと後悔する。なぜあんなに安っぽい涙を零したのだろうと思う。
「どう考えても騙されて泣くのは厭だ」と私はある人に告げた。芝居好のその相手は、「それが先生の常態なのでしょう。平生涙を控え目にしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」と注意した。
私はその説に不服だったので、いろいろの方面から向を納得させようとしているうちに、話題がいつか絵画の方に滑って行った。その男はこの間参考品として美術協会に出た若冲の御物を大変に嬉しがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂であった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。
「いったい君に画を論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼を罵倒した。するとこの一言が本になって、彼は芸術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんで云うと、すべての芸術は同じ源から湧いて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他は自ずから解し得られる理窟だというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。
「じゃ小説を作れば、自然柔道も旨くなるかい」と私が笑談半分に云った。
「柔道は芸術じゃありませんよ」と相手も笑いながら答えた。
芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観に入って始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。そこに何で共通のものがあろう。たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。
こういうのがその時の私の論旨であった。そうしてその論旨はけっして充分なものではなかった。もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈を下してやる余地はいくらでもあったのである。
しかしその時座にいた一人が、突然私の議論を引き受けて相手に向い出したので、私も面倒だからついそのままにしておいた。けれども私の代りになったその男というのはだいぶ酔っていた。それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得た事は云わなかった。言葉遣いさえ少しへべれけであった。初めのうちは面白がって笑っていた人達も、ついには黙ってしまった。
「じゃ絶交しよう」などと酔った男がしまいに云い出した。私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」と注意した。
「じゃ外へ出て絶交しようか」と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。
これは今年の元日の出来事である。酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧嘩については一口も云わない。