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硝子戸の中(29)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示:二十九 私は両親の晩年になってできたいわゆる末(すえ)ッ子(こ)である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは
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二十九


 私は両親の晩年になってできたいわゆる(すえ)()である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は()(かえ)されている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の(のち)聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世(とせい)にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多(がらくた)といっしょに、小さい(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷(よつや)の大通りの夜店に(さら)されていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想(かわいそう)とでも思ったのだろう、(ふところ)へ入れて(うち)へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から(しか)られたそうである。
 私はいつ(ごろ)その里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込へ(うつ)された私は、生れた(うち)へ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺(おじい)さん、御婆(おばあ)さんと呼んで(ごう)も怪しまなかった。(むこう)でも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通の(すえ)()のようにけっして両親から可愛(かわい)がられなかった。これは私の性質が素直(すなお)でなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷(かこく)に取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常に(うれ)しかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆(じじばば)とのみ思い込んで、どのくらいの月日を(くう)に暮らしたものだろう、それを()かれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼を()ましたが、周囲(あたり)真暗(まっくら)なので、誰がそこに蹲踞(うずくま)っているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私の(うち)の下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語(みみこすり)をするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父(おとっ)さんと御母(おっか)さんなのですよ。先刻(さっき)ね、おおかたそのせいであんなにこっちの(うち)が好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心の(うち)では大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

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