三十三
世の中に住む人間の一人として、私は全く孤立して生存する訳に行かない。自然他と交渉の必要がどこからか起ってくる。時候の挨拶、用談、それからもっと込み入った懸合――これらから脱却する事は、いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。
私は何でも他のいう事を真に受けて、すべて正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろうか。もし私が持って生れたこの単純な性情に自己を託して顧みないとすると、時々飛んでもない人から騙される事があるだろう。その結果蔭で馬鹿にされたり、冷評かされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。
それでは他はみな擦れ枯らしの嘘吐ばかりと思って、始めから相手の言葉に耳も借さず、心も傾けず、或時はその裏面に潜んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで賢い人だと自分を批評し、またそこに安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。その上恐るべき過失を犯す覚悟を、初手から仮定して、かからなければならない。或時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、事が困難になる。
もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦悶が起る。私は悪い人を信じたくない。それからまた善い人を少しでも傷けたくない。そうして私の前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。
この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それがはたして相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。私の大いなる疑問は常にそこに蟠まっている。
私の僻を別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦い記憶をもっている。同時に、先方の云う事や為る事を、わざと平たく取らずに、暗にその人の品性に恥を掻かしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。
他に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、曖昧な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、稀には相手に彼相当な待遇を与えたりしている。
しかし今までの経験というものは、広いようで、その実はなはだ狭い。ある社会の一部分で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。前後の関係とか四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮を廻らさなければ役に立たなくなる。しかもそれを廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。
それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、極めてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚がはたして当ったか当らないか、要するに客観的事実によって、それを確める機会をもたない事が多い。そこにまた私の疑いが始終靄のようにかかって、私の心を苦しめている。
もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、私に毫髪の疑を挟む余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。